「セザンヌ主義 父と呼ばれる画家への礼賛」

近くにある横浜美術館へ、会期も残りわずかになった「セザンヌ主義」を見てきた。

「セザンヌ主義」とは聞き慣れぬ言葉で戸惑ったが、展示を見てまわると、セザンヌ以降の画家が彼の絵画がはらんでいた様々な問題をそれぞれに感応し、各々の作品でそれを展開させていったことが分かってくる。

多くの優れた画家の作品の中にセザンヌ由来の結実を目の当たりにして、絵画史におけるセザンヌの意義を実感し「セザンヌ主義」を納得した展覧会だった。

ポスト印象派のセザンヌは、見えるもの(モチーフ)を再現するのではなく、絵画として再構築する絵画ということを、印象派からさらに一歩進めた画家だといわれている。

彼の描く人物画、静物画、風景画など全ての絵画は、伝統的な遠近法や明暗法を使わず、形態を再構築し画面構成している。

絵画は描かれた内容を読む絵画から見る絵画へと、描かれたモチーフは画面構成のための役割が均質になってくる。

セザンヌの一連の水浴では、木も裸婦も画面を構成する要素として等質なように見える。

対象をいったんバラバラにして再構築する作業からは、容易にピカソやブラックのキュビスムを連想することが出来る。

明暗法によらない色面的な表現は、自然とマチスのリズミカルな画面につながった。

日本の画家への影響も多大で、セザンヌをはじめ西洋の画家から貪欲に学んでいるのが分かる。

その中でも印象に残ったのは中村彝(つね)だった。影響を受けながらも個性的で、鋭いタッチで描かれた《花》 《朝顔》 《髑髏のある静物》が素晴らしかった。

また、須田国太郎の大作《水浴》があって、画集でしか見た事がない画家だったので、ラッキーだった。

作品は印象派以前の伝統的な明暗法を用いた上で、自由で主観的な群像を描いていて、ガンジスの沐浴のような神聖さがあった。他の日本の画家にはない重厚さと質の高さが伝わってきた。

考えてみると、絵を描くということはどういうことかという絵画の可能性は、セザンヌ以降大いに進化したのだと思う。

同時にそれは、画家が絵を描くうえでより苦悩する幅が増えたということかもしれないと思った。

最後に展示されていたセザンヌの言葉から。

私はきわめてゆっくりと仕事を進めます。

自然は私にとって実に複雑で、またなしとげるべき進歩は無限にあります。

モデルをよく見、きわめて正しく感じとらねばなりません。

そしてさらに、品位をもって力強く自己を表現しなければなりません。

モデルをよく見、きわめて正しく写しとるのではなくて、感じとるというところがセザンヌだなぁ、と。

シンプルでしかも力強く深い、正に理想の父親のような言葉だと思った。

「セザンヌ主義 父と呼ばれた画家への礼賛」

http://www.ntv.co.jp/cezanne/index.html