マリア‥その2

マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 (中公新書)
『マグダラのマリア』 岡田温司 (中公新書)

私たちは、絵画や彫刻の中で様々なバリエーションの「マグダラのマリア」に出会う。
それは「マグダラのマリア」が長い時間をかけて、聖書や書物に書かれていた複数の人物の色々なエピソードを、いわば重ね着のように次々と身に纏っていることによるものだ。
よく知られる「悔悛した娼婦」としてのマグダラも、その中のたった一つにすぎない。
大まかな流れとしては、最も重要であるキリストの復活の第一発見者、使徒の中の使徒としての立場から、その地位を貶める方向でマグダラのマリア像というものが形成されていった。ということのようだ。
ごく早い段階で、使徒ペテロとマグダラの間で対立があったというのは興味深かった。
家父長的なペテロ、教会の権威の成立と平行してマグダラ=罪深い女(娼婦)→悔悛のモデルとして定着という構図はさもありなんという感じがした。
聖母マリアが肉体を持たない女性、神聖なる母性を代表しているとすれば、マグダラのマリアは肉体を持った女性、女性性といったものを代表しているように思う。

本書の副題に「エロスとアガペーの聖女」とあるが、正にマグダラにぴったりの言葉だ。
ちょっと覚書として、重ね着された内容を列挙してみた。

1、キリストともに福音の旅をする。
2、キリストの磔刑、埋葬の立会人、復活の第一発見者、証人。
3、七つの悪霊をキリストに追い払ってもらった。
4、預言者、幻視者、使徒たちと台頭かそれ以上の存在。

以上が当初のマグダラのマリア

5、ベタニアのマリアのエピソード(瞑想的生活、キリストに香油をかけ髪で足を拭く)
6、罪深い女(パリサイ人の家で、罪を悔い改め、キリストに香油をかけ髪で足を拭く)
7、エジプトのマリア(娼婦をして後に悔悛、砂漠で隠修士生活)
8、 類まれな美貌、富。
9、 マルセイユ郊外のサント・ボーム洞窟で苦行者、瞑想的生活。
10、聖マクシムスによる遺体埋葬。
11、福音書記官ヨハネの花嫁。

本文を参考に、ざっと挙げても結構ある。
これだけ豊富な素材があるのだから、色々な組み合わせの図像ができるのも頷ける。

神々しいマグダラ


ピエロ・デッラ・フランチェスカ「マグダラのマリア」部分

無残な姿のキリストに激しく涙するマグダラ‥


グリューネヴァルト「イーゼンハイムの祭壇画」部分

豪奢なマグダラといえばこれ

     
カルロ・クリヴェッリ「マグダラのマリア」部分

キリストの傍らに立つ隠修士すがたのマグダラ


ボッティチェリ「聖三位一体」部分

美しくも通俗的なマグダラ


カニャッチ「マグダラの回心」部分

カラヴァッジョの描く「聖母の死」や他のいくつかの作品は、娼婦や身近な雑踏に居る人たちをモデルにして描いたこと、聖なるものに対してあまりに俗だということで教会に飾られることを拒否されたという。
当時、教会側は祭壇画としての「適正」ということに敏感であったそうだ。
   

カラヴァッジョ 左:「聖母の死」部分 右:「キリスト埋葬」 共に俯いて髪を結っているのがマグダラ

カラヴァッジョの宗教画は、当時としては革新的だと思う。
マグダラや聖人の顔や姿が、多分特定の誰かのままなのだろう、抽象的な理想像になっていないところに、リアリティがある。
うまく言えないが、個性が描けてしまったところに、時代を先取りしてしまったようなものを感じる。
カラヴァッジョは殺傷事件を起こし、ローマを追われイタリアを転々とし、38歳で客死した。
常にトラブルを抱えていた彼が、はるか天上に理想を求めずあくまで地上に拘り、みじかな人々をモデルに描いたことも興味深いことだと思う。


グイド・レーニ「悔悛のマグダラのマリア」

レーニのマグダラは理想化されていて多分、特定の誰かには似ていないだろう。
背景を見ると洞窟であるが、物思いにふけるマグダラは実に優雅だ。
当時から「天使の手で描かれた」と評され、「完璧なる理想」と形容されていたそうだ。
ある種、安心して敬虔な思いに浸れ、マグダラと共に天上を見上げるような気持ちになれるのかもしれない。
カラヴァッジョとレーニ、どちらの図像に聖なるものを感受するかは、人それぞれなのかもしれないけれど。

この前読んだ聖母マリアと、今回のマグダラのマリア、二人のマリアを比較すると意味するものの違いはあるが、「愛」というキーワードは同じような気がする。
相互で私たちに多様な愛のあり方を教えてくれているように思う。
そして、地上にいる女性はみな、聖母の高みに憧れ、努力しつづけるマグダラのマリアであるのかもしれないなぁ、とも思うのだ。

マリア‥その2” に対して1件のコメントがあります。

  1. kyou2 より:

    >monksiiruさん
    澁澤のマグダラというと、例の豪華なクリヴェッリの絵が有名ですが、占星術師のようないでたちの絵って知りませんでした。何だろう?

    私も改めてバリエーションの多さに驚きました。色々なエピソードが芸術家の想像力を刺激したんでしょうね。
    色々画像を探したり、画集を見たりする時間が、私の一番楽しい時間ですよ~。

  2. kyou2 より:

    >ワインさん
    >イエス・キリストの本当の姿を知ることと同じ
    本当にそうですね。本来の偉大な使徒としての姿をもっと知りたいと思いました。

    「ダ・ヴィンチ・コード」の影響か、この本はとっても売れたみたいですよ。私も買いましたし(笑
    2005年1月初版で、私が買ったこの本は、2006年5月で第9版ですもの。

  3. kyou2 より:

    >みちこさん
    ペテロはどうだか知りませんが、好まれないから嫌いになる。って言うのは悪循環ですね。

    福音書の中で、使徒たちと共にイエスにしたがって福音の旅したことが記されています。
    本の中で外典『マリアによる福音書』などが紹介されていましたが、ペテロとの確執はかなりあったようですね。

  4. monksiiru より:

    kyou2さん、こんにちは。
    聖書に出てくる二人のマリア、非常に対照的ですよね。
    聖母マリアはどこまでも清らかで神々しく、マグラダのマリアは地についた堕ちたマリア。娼婦から後に砂漠で隠修士生活をしていたというイメージが私にあるのは多分、澁澤龍彦の本で初めてマグラダのマリアを知ったせいかもしれません。盗掘の中でテーブルにはドクロをおいてなにやら占星術師のような出でたちの絵が記憶に残っています。
    しかし、昨年に私もテレビでマグラダのマリアの話を見て、キリストと共に伝道の旅を続けるという話を見てイメージが一変してしまったのです。娼婦でもなければ、悪霊にもつかれていない・・・マグラダのマリアという女性像が無垢なものに変わりました。
    聖母マリアをどこまでも高く清らかな存在にするためにもう一人のマリアを元娼婦という穢れや堕落を連想する姿として必要だったのかもしれませんよね。
    マグラダのマリアの絵をたくさん紹介していただきありがとうございました。バリエーションの多さにびっくりました

  5. ワイン より:

    聖母マリア、マグダラのマリア、共にイエス・キリストの核心の最も近いところにいた人物だという点で共通しているように私には思えます。他の使徒たちはイエスの生前、いつも周辺的なところをうろうろするばかりで、いつまでたってもイエスの本当の教えを、そして姿を理解していませんでしたね。
    マグダラのマリアの本当の姿を知るということはたぶん、イエス・キリストの本当の姿を知ることと同じなのかもしれません。

  6. みちこ より:

    聖母マリアが非肉体的、マグダラのマリアが肉。聖と世俗という捉え方はうがっていますね。
    単純な話、ペテロは女に持てないタイプの男だったろうと思います。まあ、だから女嫌いだったんでしょう。そういう人、多いですよね。
    そもそも、娼婦を軽蔑するという感覚は良く分かりません。好きで娼婦になる人は居ないでしょう。家庭の事情で泣く泣くというのがほぼ全てのケースでしょうから。
    イエスとマリアは一緒に旅をしたんですか?良く理解しあっていた二人だとしたら、マリアは、ペテロ達が、イエスの教えの本質を理解していないこと、今後も理解しないことをよーく分かっていたんじゃないでしょうか?だから、イエスの死後、彼らから離れたんだと推察します。

  7. kyou2 より:

    >Yadayooさん
    お読みになっていたのですね。
    私は今まで断片的なマグダラ像しかありませんでしたが、今回改めて彼女がいかに変形され、意味が増殖されてきたのかが分かりました。
    マグダラの扱いは、キリスト教における女性のとらえ方であると思いました。

    >そこにはイエスと手を取り合って旅をしていた姿や、教えを最もよく理解している普通のマリアの姿が紹介されていました。
    そうですね。存在を意図的に歪められたとしか思えない‥‥
    罪のイメージは、後世に彼女に付け加えられてしまったと分かっていても、かなり浸透していることは否定できませんね。
    辛い役割を押し付けられたと思います。

    >起きてはならないはずの権力闘争のような力学が働いてしまい‥‥
    何だか、人間の性を感じてしまいますね。愛を説いたキリストであるはずなのにと。
    しかし一方で、キリストは闘争的であったようにも思え、複雑です。

  8. Yadayoo より:

    イエスの最も近いところに居たマグダラのマリアには、さまざまな憶測や偶像化や誹謗などが繰り返され、今日知られているマリア像は、もはや真実に近いものがほとんど残されていないのではないかと思いました。娼婦だったという事実も本当はあやしいみたいですね。この本は以前読みました。複雑な思いばかり残りましたね。
     以前、TVの特集でみた、実像に近いとされるマリアの姿は、とても自分を惹きつけました。そこにはイエスと手を取り合って旅をしていた姿や、教えを最もよく理解している普通のマリアの姿が紹介されていました。弟子の中でいちばん力を持ちながら、教会を形成していくペトロ一派から追放されたような形で、アフリカかどこかの地方に流れて、ヒッソリと晩年までそこで暮していたとされていました(ちょっと記憶ちがいかもしれません)。その地方に真っ黒なマリア像が祭られている教会があって、マグダラのマリアの居た教会だったのではないかとされていました。
     寂しい村にある断崖に接した教会の姿が紹介されていました。
    イエス亡き後、起きてはならないはずの権力闘争のような力学が働いてしまい、どんな話し合いが弟子の間で語られたのかわかりませんけれど、マリアの方が身を引いたのだろうか、などと勝手な想像をしてしまいました。

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