マリア‥その1

西洋の絵画を見ていると、どうしても避けて通れないのが「ギリシア神話」と「キリスト教」・・というわけで、キリスト教関係の新書『処女懐胎』 『マグダラのマリア』の2冊を読んでみた。
どちらも絵画を中心に説明がされていて図版多数なのが嬉しい。巻頭カラー図版も充実していて大満足。
コンパクトに纏められているけれど、読み応えは充分だった。

処女懐胎―描かれた「奇跡」と「聖家族」 (中公新書)
『処女懐胎』 岡田温司 (中公新書)

 

第Ⅰ章「マリアの処女懐胎」
ここでは描かれた「受胎告知」の時代による変遷、画家によって如何に「それ」が表されているかを細かく見ていく。
例えば、「耳から」の受胎、「御言葉」や「影」による受胎、頭上に降りる聖霊など、あらためて色々な「受胎告知」を見直すと、如何に工夫を凝らしているかが見えてくる。

 


「耳から」の受胎   コスメ・トゥーラ「受胎告知」部分

 


「御言葉」による受胎  ベアト・アンジェリコ「受胎告知」部分

 


「影」による受胎  ヤン・ファン・エイク「受胎告知」部分

 


頭上に降りる聖霊   カルロ・クリヴェッリ「受胎告知」部分

 

この他にも、特異な例としてフラ・フィリッポリッピの透明な球体?の中に聖霊の鳩が入っている(ボッシュの快楽の園みたいな)表現も面白かった。

2作品ともフラ・フィリッポリッピ「受胎告知」部分

「受胎告知」は図像的にはマリアが主人公のように目立つが、どうやら処女懐胎というのは、できるだけマリアの役割を小さくするもの、母が産んだのではなく、父なる神によってキリストが生じたということを強調するもののようだと思った。

 

第Ⅱ章「無原罪の御宿り」

これはマリアが処女でありながらキリストを宿した(処女懐胎)ことではなくて、マリア自身も母アンナから肉の罪を免れて生まれたということ。
う~ん、二代続けての奇跡ということか‥‥。

今まで全く意識してこの図像も見たことが無かったけれど、「無原罪の御宿り」と言うのは非常に説明の難しい図なのだそうだ。

言葉とちがって絵画はその性質上、否定を表すことはひじょうに困難である。というのも、何かを描くこと、つまり何かが「ある」ことを見せることによってしか、何かが「ない」ことを表現できないからである。それゆえ、このテーマは、絵画にとって根本的な逆説を孕むものである。 (P80)

というように絵画表現の苦労の歴史、図像の変遷がとても面白かった。


ルカ・シニョレッリ「無原罪の御宿り」

シニョレッリの絵はとても説明的だ。あらゆるイメージを詰め込んで説明しようとしているように見える。

著者はバロックのマリアには、逆説が宿っていると指摘している。
最もカトリック的であるはずなのに、どことなく異教徒の女神を彷彿させるというのだ。
これは肉から切り離されたマリアが、否定し続けていたあらゆる生産的なことを全て無にしてしまう、最も恐るべき事なのだろうと思った。

 

第Ⅲ章「「養父」ヨセフの数奇な運命」

なるほど当初の図像を見ると、婚約者が自分のあずかり知らぬところで懐妊していたという微妙な立場のヨセフは、堂々と中心に描かれる存在ではなかった。
しかし、時代が下るにつれ「ヨセフの復権」がなされていく。
家父長制のモデルとしてとらえることから始まり、地上の三位一体、キリストによるヨセフの戴冠(はじめはマリアの戴冠だった)等々。

だが、その栄光ある復活が、キリスト教の世俗化、布教という名のものでの侵略と征服、絶対主義国家の台頭といったカトリック世界の動きとも、深いところで連動していたということを、私たちはけしって忘れてはならないだろう。 (P200)

宗教と為政者が、大なり小なり関わりがあるのは世の常なのだろうか。

 

第Ⅳ章「マリアの母アンナ」

ここを読んで俄然アンナに興味がわいた。先ず、アンナは3度結婚しているらしい。知らなかった。
そして三人の夫から三人のマリアという名の女の子をもうけている。やたらマリアが多くてこれが混乱の元なのに。
第一の夫ヨアキムから聖母マリア、ヨセフと結婚‥キリスト誕生。
第二の夫クロパからマリア、アルパヨと結婚‥ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ誕生。
第三の夫サロメからマリア、ゼペダイと結婚‥大ヤコブ、福音書記者ヨハネ誕生。



ルーカス・クラナッハ「聖親族」

これは上記の人たちが総出演しているもの。
「聖家族」ならぬ「聖親族」という一族の集まりの図、これは面白い。
艶かしいヴィーナスを描くクラナッハが、こういう絵を描いているなんて知らなかった。
この「聖親族」も、時代と共に父親、母親の役割が変化していくのにつれ、描かれ方も変化していくのだそうだ。

アンナは純潔でマリアをもうけた一方で、別のマリアをもうけ孫にも囲まれ、豊穣、繁栄、富の象徴とみなされているという。
また万能の守護聖人、既婚の聖女たちのアイドル、家庭における教育者としてのアンナ信仰があったそうだ。
フィレンツエとアンナとの関わりも、なるほどナァという感じ。(レオナルドも「聖アンナと聖母子」を描いている)

読んでいてアンナが実に多彩で包容力のある存在であることが分かる。
しかし、次第にアンナ信仰は廃れていった。
著者はそれが、ヨセフが聖者としての栄光を駆け上がるのと反比例していると述べている。
ヨセフではなくて、アンナが選ばれていたら世の中は変わっていたろうか?
私は今現在欲しいのは、正にアンナ的な生命力ある母性ではないかと思った。

色々な作品を見ながら書いていたら、面白くなって何だかズラズラ長くなってしまった。
2冊目は次にしようっと。

マリア‥その1” に対して1件のコメントがあります。

  1. kyou2 より:

    >高人さん
    >寓意的表現や象徴的表現になってしまうのでしょうね。
    そのとおりだと思います。それで初期の図像は結局言葉に頼ることになって、
    絵の中に言葉を描き込んだり、象徴するものを描きこむという、
    「不在」なのにめいっぱい描きこんだ説明図のようなものになって
    一般の人にはあまり人気のある図像ではなかったようです。

    『三位一体モデル』ですよね、面白そうですね。
    私も正直父と子はわかるような気がしますが、聖霊の存在ってどういうものか、よくわかりません。
    余剰というかプラスαな感じがしていました。
    「生産を媒介するある種の生命的な営為」う~んなるほど、という感じ。興味深いですね。

  2. 高人 より:

    「否定」の絵画的表現が困難、というところに関心が行きました。
    天邪鬼を踏みつけにしたり、惨めな様相で示したりということがありそうですが、それ以上に「空虚」や「不在」それ自体を描くのはもっと難しそうです。やはり、寓意的表現や象徴的表現になってしまうのでしょうね。
    マリアの肉を離れた捉え方に生命力の衰弱を見る、というのは「信仰」の側面を捨象した受け取り方かも知れません。
    中沢によれば、三位一体の考え方に巧妙な生産性や豊穣さへのカラクリが潜り込ませてあるとか、、、
    「聖霊」という定義の困難な非理念的な概念に、生産を媒介するある種の生命的な営為が暗示されている、ということなのですが、、、
    場違いなことを書いてしまったかもしれません。

  3. kyou2 より:

    >ワインさん
    >彼らはそれをあらゆる考えられるかぎりの人間的な手段をつかって描き揚げたと考えると‥‥
    本当にそのとおりです。その人間的な努力というかアプローチに感動しますよね。
    絵を見ただけで敬虔な気持ち、清らかな気持ちになる作品は沢山あります。
    そういう時は、言葉にはない絵画の力に見せ付けられますね。

    民間伝承とか、色々なエピソードとか、そういうものが生まれた背景が面白いですね。
    針小棒大、荒唐無稽なことも、やっぱり核になる何かはあったはずだし、どういう風に味付けされてくるかが面白いところですね。

  4. kyou2 より:

    >弥勒さん
    簡潔にして嬉しい弥勒さんのコメントですね!
    いつも、どうにかこうにか書いているブログなんですよ~。

  5. ワイン より:

    神秘体験とか、神秘現象とかいうものは、どうがんばっても言葉であらわすことはできないのだそうです。絵にしても同じことでしょう。でも、あえてそれを描こうとした画家がたくさんいて、彼らはそれをあらゆる考えられるかぎりの人間的な手段をつかって描き揚げたと考えると、見る側としてはおもしろいですね。
    民間の伝承などは、それを見た人間があとからくっつけてつじつまを合わせた部分も多いのではないかな、などと思いました。
    マリアの母アンナなんて、本当にいたのかしら?聖書にはアンナなんて出てこないものね。そのアンナもまた処女懐胎だったなんて、なんだか行き過ぎてないだろうか、なんてつくづく思ってしまった私です。

  6. 弥勒 より:

    その2も期待します。

  7. kyou2 より:

    >みちこさん
    レスは別便でしますね。
    私は絵画を通してのキリスト教に興味を持っているだけで、稚拙な考えしかありませんし、
    信仰されている方には失礼千万なことを言ってしまうかもしれませんので。

  8. みちこ より:

    申し訳ないのですが、「無原罪の御宿り」のところの「これは肉から切り離されたマリアが・・・」のところが良く理解出来なくて。。もう少し説明していただけませんか?
    キリストのお父さんのヨセフが無視されているのが気になっていたのですが、ちゃんと復権されていたのですね。それも始めて知りました。(あまりいい形の復権ではなかったようですが)
    しかし、それにしても、何故、処女懐胎が必要だったのかな?単純に、思想的なもの(人間はもともと罪深いとか、セックスは罪だとか)によるものなら理解できるんですが、エドガー・ケイシーの霊視でも、やはり、アンナとマリアは処女懐胎だった、と言っているんですよ。科学者から見れば処女懐胎なんて戯言でしょうが、もし、もし、本当だとしたら、精子はもちろんのこと、卵子も使わなかったのか?とか、一体彼女たちの体に入ったのは、なんだったのか?とか、キリストのDNAを調べたら何が出てくるのか?とか、不思議。。。
    あと、ダ・ビンチの描くアンナが中性的で理知的な顔をしていることや、彼が、イエスよりも、聖ヨハネと聖アンナに惹かれていたんじゃないかな?とかも、気になります。。。
    この本は、色んな人が読んでいて、書評がとても良さそうですね。
    2冊目の感想も楽しみにしています。

  9. kyou2 より:

    >みちこさん
    油絵の方が、よりアンナ-マリア-キリストの流れがはっきりと分かるような気がします。
    それとアンナが全体を支えていることで、根源的なアンナがより強調されているのかな、なんて思いました。

    読んでいて、マリアやアンナ信仰がどこか恐れられているのは、唯一とか絶対とかいうものが、そこには無いからなのかなとも思いましたよ。

  10. みちこ より:

    ダ・ビンチの絵には、素描には描かれていた聖ヨハネが登場していないのですね。素描の構図は、マリアの座り方も自然だし、アンナが本当に愛おしそうにマリアを眺めていて、何とも美しいと思いましたが。従兄弟同士のヨハネとキリストの構図も微笑ましくて。。。
    アンナのことは、マリアと同じような処女懐胎をしたという以外、全く知りませんでした。
    「アンナ的な生命力ある母性」ですね。なるほど。男女を問わず、大きな河のようにゆったりとした、愛情溢れる存在が増えると、少子かも無くなる?

この投稿はコメントできません。