それでも見る楽しみ
『なにも見ていない―名画をめぐる六つの冒険』 ダニエル・アラス著/宮下志朗訳 (白水社)
著者は親しい誰かとの対話、あるいは討論、何人かとの会話・・等々フィクション形式で、6つのユニークな美術論を展開する。
どれも一味違った切り口で、どの作品もいつもとは異なった目で見ることが出来た。
取り上げている作品は
ティントレット「ウルカヌスに見つかったマルスとウェヌス」
フランチェスコ・デル・コッサ「受胎告知」
P・ブリューゲル「三賢王の礼拝」
ティツィアーノ「ウルビーノのヴィーナス」
ベラスケス「ラス・メニーナス」
絵の特定はなく、マグダラのマリアのヘアーについて
各々の作品解釈を通して共通するものは、解説にもあったが“見ることと見えないことのせめぎ合い”ということ。
それは、作品の画面上でなされていることの指摘でもあり、作品とそれを見る鑑賞者に問われていることでもあるように思えた。
単にイコノグラフィーに当てはめ、安住するのではなく、もっと自分の目でよく作品を見て見ろ、という著者の作品解釈は読んでいて楽しく、新鮮な驚きがあった。
面白かったのは
コッサ「受胎告知」
http://www.wga.hu/html/c/cossa/annuncia.html
もう何というか、不思議な絵。
ズームで見ると更によく分かる・・画面下の縁にカタツムリなんかがいるんですね~。
大天使ガブリエルがマリアにお告げのいつものシーン、この絵はめずらしく空間を斜めに使っている。
しかも彼女たちは柱が邪魔になって、お互い見えているのだか見えないのだか。ここでも視覚のせめぎ合いがある・・とは著者の指摘。
そしてこの重大事に盲目なカタツムリをガブリエルの手の方向に結びつけた先には、カタツムリの形と似た神の姿が。
受胎告知の絵そのものが、不可視を可視にしたものだ。
そもそも、私たちはこの絵に何を見ているのだろう?・・・実にコンガラがるなぁ。
いくつかの約束事をクリアすれば、その絵は受胎告知と認識される。
その枠の中で自分だけのトリッキーな空間に、しがないカタツムリを入れて。なんだか作者の遊び心が感じられていい。
つらつら別のコッサの作品を見ていたら・・
この絵の、左の聖人の裾辺りに見える鳥、周りの風景に対してスケールが変じゃありませんか?
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何度もこの絵を見ましたが、どう見てもいい絵とは思えない・・と思うのは私だけでしょうか?
いったいコッサ氏は何を言いたいのか全くわかりません。聖人たちの絵もあまり聖なる感じがしないし、受胎告知もなんだか変だしね。なんでかたつむりなの?ちゃかしているのか、それとも「かたつむり」には特別な意味でもあるのかしら。