「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」
岩波ホールで上映中の「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」を見てきた。
この映画はフランスアルプス山脈に建つ、カトリック教会の中でも戒律が厳しいカルトジオ会の男子修道院「グランド・シャルトルーズ修道院」で生活する修道士を撮影したドキュメンタリーだ。
1984年、監督が修道院の撮影を申請
「まだ早い」と断られる
16年後、「準備が整った」と連絡がくる
条件:音楽なし、ナレーションなし、照明なし、
中には入れるのは監督のみ
準備に2年、撮影に1年、編集に2年
構想から21年、映画が完成する ——— 映画『大いなる沈黙へ』オフィシャル予告編より
この経緯からも修道院の厳格さと監督の熱意が伺える。実際、監督は修道士と同じように個別の房で生活し、決められた日々の務めをこなしつつ撮影したそうだ。
修道院内で、修道士同士が会話することは殆ど無かった。絶対的な沈黙の誓いというのはないそうだが、けして言葉を発してはいけない場所もあり、3時間近くある映画は一貫して沈黙と静寂の中で過ぎていった。
時折聞こえるのは、雨や風の音、鐘の音。祈りの声、鳥の声。修道士たちが生活の中でたてる最小限の物音。監督はインタビューで撮影当初最も困ったのは自分が出す雑音だったと言っていた。
だからこそ静寂の中で聞こえる音に、音には意味がある、と改めて感じることができた。
修道士の生活は清貧そのものだった。そこには物を丁寧に扱い、大切に受け継ぐ美徳があった。それ故、修道院にあるもの全てが人の手によって滑らかに馴染み、時間によって清々しく洗われているように見えた。
服を作る部屋に沢山の白っぽい色のボタンがあり「ああ、亡くなった人のボタンもこうやってとっておいて使うのだ」と思った。白白とした乾いた骨のようなボタンが美しく印象的だった。
映像が美しかった理由の一つに、「照明なし」という映画化の条件があると思う。自然光が、より一層物を美しく見せたということだ。
降り注ぐ光によって、物の形や色が明らかになり、柔らかな蔭や影が創りだされている。まるでフェルメールの絵のようだと思うところが沢山あった。修道院の内外は実に美しいトーンで満たされているのだなぁと分かる。
また、ハッとさせられたのが、時折挿入された修道士の表情だった。何人かの修道士がアップで映され、じっとこちらを見ている。皆、無表情に近いがそれぞれ個性的な顔だ。
「あなたはどうなんですか?」と逆に自分自身が問われているように感じた。
修道士は昼夜を通して厳しい日課があり、会話もなく過ごすが、日曜日には皆連れ立ってウォーキングをし、普通に会話を楽しんでいる。シンプルな遊びを無邪気に楽しむ様子は、映画館の観客が、唯一穏やかに笑えるシーンだった。
彼らに悲壮感は全くない。辛いと感じる人は元々残ってはいないのだろう。修道士になりたいと思って訪れた人の80%は自ら去り、あとの20%のうち何人かは修道士たちに送り返されるそうだ。送り返されるのは志願者の将来を見据えたことで、修道士の経験則なのだろう。
グランド・シャルトルーズ修道院の修道士は物心両面で削ぎ落とされた厳しい世界にいるが、淡々と自由に生きているように見えた。
自らがここを選んだのであり、修道院からも選ばれたと言えるかもしれない。
淡々と暮らし自由でいられる場所。その場所は人によって全く違うだろう。だが、その場所が見つかることこそ、人には大切なことだと思うが、どうだろう。
“「大いなる沈黙へ グランド・シャルトルーズ修道院」” に対して4件のコメントがあります。
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>みちこさん
>修道院の生活で面白いと思うのは、世界の情報を無視していること(たぶん)です。
私もそう思っていました。でも、パンフレットを読むと、世の中の情勢は院長が伝えていると書いてありました。でも、限定的なものにならざるを得ないですよね。
>こうして自主独立で修行にはげみ、他人を傷つけない姿は、宗教の本来あるべき姿かな、と思います。
本当にそうですね。宗教のために命をかけたり、落したり、それが幸せと多くの人に信じさせることが、恐ろしいです。傍からとやかくいうことではないかもしれませんが。
修道院の生活で面白いと思うのは、世界の情報を無視していること(たぶん)です。どんな国がどういう状況なのか、自国の政治情勢すら頭に入れてないのかも。面白いですね。
良いなあ、と思うのは、戦わないことですね。宗教観が基になった戦争の多いことを思えば、こうして自主独立で修行にはげみ、他人を傷つけない姿は、宗教の本来あるべき姿かな、と思います。
>ワインさん
>このドキュメンタリー映画は眠くなりませんでしたか?
そうですね、正直眠くなる時もありました。あまりにも凪というか…
館内もとても静かで、咳をするのも憚られる感じでした。それはとても作品に入り込めてよかったですけれど。
緊張した無音の状態から鐘の音一つでもしてくると何故かホッとするような感じも否めなかったかも。それほど現代はどこにいても音がするものだと思いました。
>それはとても自分の魂にとって大切な時だったのだということもあらためて思いました。
子育ては試練なのかもしれませんね。愛情ゆえの割り切れなさがジレンマです。
> 神の声はしずかな風の中に聴こえてくるもので、耳をすましていなければけしてわからないものなのだということも感じました。
そうですね。このごろ自分はちゃんと静かに色々なものを聞けているか?と自問自答してしまいます。
> 自分の今の状態をじっくりと観察して反省するよい機会になる、そんな映画でした。
本当にそうですね。
教えてもらって絶対に見たくて、久しぶりに映画館に行きました。有難うございました。
>修道士たちはただ一つ、自分の目指すものだけを見つめて毎日過ごしているのでしょうね。
一意専心ですね。
Kyouさん、このドキュメンタリー映画は眠くなりませんでしたか?現代社会、特に都会の生活のリズムに慣れ親しんでしまっている人間にとって、このような修道院の生活というのは想像を絶するような世界ですね。私は、子供を産んで育てているときの自分の心の状態を思い出しました。そして、それはとても自分の魂にとって大切な時だったのだということもあらためて思いました。
神の声はしずかな風の中に聴こえてくるもので、耳をすましていなければけしてわからないものなのだということも感じました。
自分の今の状態をじっくりと観察して反省するよい機会になる、そんな映画でした。あれもこれも欲しがるというのは、結局何も得ることができないのだということなんでしょうね。修道士たちはただ一つ、自分の目指すものだけを見つめて毎日過ごしているのでしょうね。