『名もなき毒』
『名もなき毒』 宮部みゆき (幻冬舎)
毒とは一体なんだろう?
飲めばすぐ死ぬ毒薬もあれば、人の欲や悪意、嫉妬や猜疑心といった毒もあるだろう。
人はどんなに普通に暮らしていても、知らぬ間に様々な毒を被る危険があるのかもしれない。
杉村三郎は財閥企業の会長の娘と結婚した逆玉で、会長の下、社内報編集という権力闘争とは無縁の仕事をこなしている毎日だ。
そんな中、新しく入ったアルバイトの女性がとんだトラブルメーカーで、彼女の経歴について調べることになった。
杉村が私立探偵の北見を訪ねると、偶然そこで連続無差別毒殺事件で祖父を失った女子高生と出遭った‥‥。
印象的だったのはアルバイトの女性・原田いずみで、正に方々で毒を撒き散らしているような女性だ。
彼女は編集関係の経験者ということで採用になったが、やらせてみると全くの素人で、何から何まで教えなければならなかった。
彼女は平気で嘘をつき、間違いを指摘すれば何だかんだと理由をつけ激高して泣き出し、絶対に自分の非を認めようしない。そして次第に嘘や言い訳に留まらず、相手を攻撃し暴力まで振るうようになった。
あまりに非常識な言動に編集室全員が疲労困憊し、結局彼女には辞めてもらうことになった。
しかし、彼女はさらに信じがたい行動をとり続ける‥‥。
う~ん、程度の差こそあれ何となく「いるいるこういう人」っていう感じだ。
原田いずみの毒は相当なもので、この類の人と関わったらと思うと、本当に恐くなった。
でも、そういう悪意のある毒とは別に、自分では気づかずに吐いている毒もある。
杉村三郎が毒殺事件の容疑者に会いに行ったことについて、あるジャーナリストが彼に言ったこともまた事実だ。
「本来、あなたみたいな見るからに恵まれた人間が彼に接触すること自体が間違いなんです。邪気がないってのは、いちばん始末に悪い」
何も言えなかった。言葉の意味はわかるが。自分がどんな始末に悪いことをやらかしてしまったのかがわからない。いや正確に言うならば。自分のやったどのことが不始末で、どのことは不始末から免れているのか。その境界がわからない。 (p412)
杉村は財閥企業の会長の娘とは知らずに今の妻と付き合い、結婚した。
控えめで優しい妻とかわいい一人娘、それと妻の莫大な財産。人もうらやむ贅沢な暮らしをしている。
しかし、親兄弟との関係や自尊心など失ったものがないわけではない。贅沢な暮らしに対する違和感や不安が、いつも心の底にある。
それでも人は彼をうらやみ、妬み、誤解する。見るからに幸せそうな人が本当に幸せとも限らないのに。
が、やはりその容疑者が抱える様々な問題や孤独に比べ、杉村は幸福すぎるのだろう。
眩しすぎる人間というのは、見たくない我が身を照らし出すようで、やっぱり嫌だと、私も思うときがある‥‥。
誰でも毒をもっていて、それがいつ、誰に、どのようにダメージを与えるのか分からないから、人間関係は難しい。
事件の推理を楽しむというより、人物描写やその背景の方が面白く、著者が現代社会をどのように見ているのか興味深かった。
強烈なインパクトはなかったが、人の強さと弱さ、それと温かさがジンワリと伝わる宮部ワールドだった。