秋成のあこがれ
『新釈雨月物語 新釈春雨物語』 石川淳 (ちくま文庫)
雨月物語は、「浅茅が宿」「夢応の鯉魚」「吉備津の釜」「菊花の約(ちぎり)」など、何かの本の中で読むことはあったが、まとめて読んだことはなかった。
『春雨物語』については全く読んだことがなかったので、本屋さんでふと目にとまって読みたくなった。
雨月物語の中で一番すきなのは「夢応の鯉魚」
三井寺の興義という僧がいて、魚を愛で、生けるがごとく鯉を描くことで有名だった。
ある時、病にかかり床につくこと7日。熱にうかされ外へ出て、朦朧として彷徨い、そのうち湖で泳いでいた。
すると水の神が、僧の常日頃の魚への功徳により金鯉の姿で自由に泳ぐことができるようにしてくた。
興義はかねての望みどおりに、魚のように泳ぎ遊んだ。
そうこうしている内に、空腹で釣り糸の餌に耐え切れず、釣り上げられてしまった。
自分は興義だ!と必死に叫ぶが、周りはいっこうに気づく様子もない。
とうとう、興義は俎板の上の鯉になってしまい‥‥。
鯉がばたばた跳ねまわり、厚い唇で口をぱくぱくする様子は、なるほど何事か訴えているようでもあるな。
興義が一匹の鯉になって水を泳ぎまわるところは、人嫌いで厭世観のある秋成の憧れかと思うほど、澄んで美しい場面だ。
読んでいるこちらも、尾ひれに冷たい水を感じるのが分かるような気がしてくる。
この僧、亡くなる時に鯉を描いた図を水に放つと、紙上から鯉が泳ぎ出たそうな、ゆえに作品は世につたわらないととのこと‥‥。
こういうフワフワした話が、私は好きだ。
他方「吉備津の釜」は人間の妄執渦巻く怪異譚。
どうも同じような「牡丹灯篭」や「四谷怪談」といった、成仏できない系はちょっと苦手だ。ただ妄執を抱く相手がピンポイントなので助かるけれど。
『春雨物語』は雨月物語に比べてざっくりとした感じのピカレスク、「樊膾(はんかい)上下」が印象的。
他は「血かたびら」、読んだらあの《薬子の変》の話だったので驚いた。
《薬子の変》は平城上皇vs嵯峨天皇の構図で、敗れた平城上皇側の妖婦、藤原薬子が自刃した。
「血かたびら」は、その際飛び散った血が几帳にかかり、その血はいつまでも乾かず、鬼気さらに迫ったというもの。
薬子といえば、澁澤の『高丘親王航海記』と思っていたら、親王についてこんな一文が載っていた‥‥
また上皇のみこ高丘親王は、今のみかどが上皇の胸中を察して皇太子に定めておいたものだが、これを廃して、僧になれと宣旨があったので、親王かざりをおろし、名をあらためて真如という。この真如法親王、三論を道詮についてまなび、真言の密旨を空海について習い、なお教の奥があろうと、貞観三年唐土にわたり、行くゆく葱嶺(パミール)をこえ、羅越国(ラオス)に至り、こころゆくまで問いまなんで、帰朝したという。このみこが世を治めたもうたならばと、内内には上下ともに申しあったことである。 (p155)
『高丘親王航海記』の中でも、「みこ、みこ」と妖しく優しい薬子の声が聞えていたっけ‥‥。
ながれで、澁澤の『ねむり姫』を読んでしまった。