珍しく時代小説を

『顎十郎捕物帳』 久生十蘭 (朝日文芸文庫)

どうも池波正太郎や藤沢周平といった定番時代小説は、老後の楽しみに取っておいた方がいいかな、と思っている。

いや別に、そういった時代小説が中高年のオジサンっぽいというわけじゃない。

何のことはない読めば面白いに決まっているので、これに手を出すと他が読めなくなりそうなのだ。

普段そんな風に思っていたが、ひょんなことで久生十蘭の捕物帳があると知った。いつかは読んでみたいと思っていたところ、古本屋さんで早々遭遇してしまった。まあ、もう読むしかないでしょ。

十蘭は久作と同じく黒いマグマのようなエネルギーを感じるが、文章から感じイメージはとても異なる。

久作が鉈で叩き切るのに対して、十蘭は日本刀でスパッと斬る鮮やかさがある。

そんな十蘭が描く主人公はどんな人物なのだろうと思いきや‥‥

年代記ものの黒羽二重の素袷にはげちょろ鞘の両刀を鐺(こじり)さがりに落としこみ、冷飯草履(ひやめしぞうり)で街道の土を舞いあげながら、まるで風呂屋へでも行くような暢気な恰好で通りかかった浪人体。船橋街道、八幡の不知森のほど近く。 (P8)

なにやら風采の上がらぬ外見だが、おまけに顔がめっぽう長いというのだ。

曰く、夕顔棚の夕顔のようにブランと下がる。とか、柱に寄りかかれば瓢箪の花挿しと見紛う、とか。兎に角、顔の半分が顎という超末広がりご面相なのだ。

そんなわけで本名は仙波阿古十郎のところ、付いたあだ名が「顎十郎」もっとも本人の前ではあだ名はもとより、「顎」は禁句。うっかり言えば殺されかねないというから厄介だ。

風来坊の顎十郎、叔父で北町奉行の与力を頼って、例繰方(れいくりかた)という職をもらい、番所から捕物帳など持ち出しては寝っ転がって読みふける日々を送っている。

ヴィジュアル的にはテンションが下がるヒーローだが、これが意外や博学頭脳明晰、中元部屋に仲間が多い情報通。

叔父を助け、難事件を次々と解決。‥‥というわけで本書には24の捕物が収められている。

茫洋とした顎十郎だが、実はスゴ腕なのだという件。

「つまらぬことをいうようだが、藤波さん。‥‥むかし、わたしが死ぬほど惚れた女がいましてね、その家の紋が二蓋亀(にがいがめ)という珍しい紋所だった。見れば、あなたの帷子の紋も二蓋亀。‥‥なんだか、ほのかな気持ちになりましてね、どうも、あなたを斬る気がしねえんだ。ゆるしてあげるとしよう」 (p155)

ライバル南町奉行所の腕利き同心・藤波友衛が、顎十郎を前にして禁句の「顎」と言った為にそう凄まれた。

別れ際に、藤波は背中に気合一声「エイッ」とやられたが何の事はなかった。が、連れの岡ッ引が、後ろから藤波の背を見ると、肌には少しも触れずに背中の紋だけが丸く切り抜かれていた。

う~ん、何とも渋いではありませんか。これでもう少し顔がよければ‥‥

事件に刀はめったに使わず、推理の切れ味が見せ所。文章も冴えに冴えてリズムもいい。

それと、何を考えているんだか得体の知れない顎十郎は、十蘭その人を想像させた。