出会いの喜びと恐さ
『朗読者』 ベルンハルト・シュリンク著/松永美穂訳 (新潮クレスト・ブックス)
これはよくある等身大の恋愛小説とか、平凡な人生の物語ではなく、国も歴史も何もかも違うといえるほど、自分とは掛け離れた世界のことだ。
けれど事細かな類似に共感して安心するのとは違った、普遍的な「人間とはこういうものか」という思いがあった。
人間の本質的な業や悲しみといったものを、硬い感じの文章で読むのもいいものだ。と、久しぶりに翻訳物を読んで思った。
主人公のミヒャエル・ベルクは、15歳のとき、21歳年上のハンナ・シュミッツと出会い、恋に落ちた。
二人のやり方で過ごす、貴重で濃密な時間。それは彼にとって、人生で一番耀きに満ちた時間だった。
しかし、彼女は突然彼の前から姿を消してしまう。
彼には理由が全く分からず、残ったのは小さな罪の意識だけだった。
実は、ハンナには若い彼が想像し得ない、誰にも話したくない秘密があった。
やがて残酷な再会が、それを教えてくれることなった‥‥
読んでいて、こんなに彼女に拘り続けなければいけない理由はないのに、とか、こんなに自分を責めなくても良いのに‥‥と思ってしまった。
どうして人間は自ら罪の意識を生みだして、自分を追い詰めていくのだろう?
人って結局人との関わりが、幸不幸を決定する大きな要素になるのだなぁと、どこか「逃げ切れない」といった思いが沸いてくる。
彼にとって彼女と出会ってしまったことは、幸せだったのだろうか?
複雑な事情をかかえていたハンナを愛したことが、彼から単純に人生を楽しむことを奪ったとしたら‥‥その出会いは幸せとはいえないかもしれない。
人生で、すべての出会いが幸福なものだとはけして思わないが、この主人公の異常とも思える執着が痛ましく思えた。
切り離したい、リセットしたい過去があっても、そうそう簡単にはいかないのが人間なのだろう。
ミヒャエルは彼女と関わり続けることで、様々な犠牲を払った。
それは自己中心的ともいえる誠実さでハンナへこだわった結果、彼に関わった人を彼自身が不幸にする、ということさえも生んだ。
自分を貫き通すというのは、誰かの犠牲の上に成り立っていると思う。
小説の終盤で、彼とは全く立場の違う女性がハンナについて述べるところがある。
はじめて彼とハンナの関係について聞かされたとき、その女性は、
「なんて粗暴な女なのかしら。十五歳でもてあそばれることに、あなたは耐えられたのですか? (以下略) 」というようなことを言う。
立場が変われば、世界はガラリと変わって見える。
そんな、現実の複雑さを見せ付けられた瞬間で、とても心に残った。
“出会いの喜びと恐さ” に対して4件のコメントがあります。
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>みちこさん
>立場が変われば、世界はガラリと変わって見える。これも、年ととるとよく理解できます。
私も昔に比べて、少しは色々な方向からものを見ることが出来るようになったかも。
でも、相手の立場に立ってものを見るっていうのは、出来ているつもりでも、けして出来ないものだと思います。
そう努力することが、精一杯の誠意だと思いますけれど。
>たとえ嘘の理由でも告げた方が相手のためだと思いますね。
どんな場合でも、理由が分からないというのは辛いですね。納得させてあげるのが優しさですね。
この小説の女性は、不器用な人間かもしれません。
また、どうしても相手を納得させるだけの理由が見つからなかったのかもしれない。
21歳の歳の差が、いずれ別れがくる、若い彼はすぐ忘れるだろう。という思いにさせたのかもしれません。
この小説から離れて、嫌いになった相手には、復讐代わりの置き土産に、別れた理由を言わずに去る。というのもありかもしれませんよ。
後で相手が苦しむのが分かっていて、楽しめるようにね(笑
kyouさんのコメントがとても良いですね。
時分を貫き通すということが、誰かの犠牲の上に成り立つ。
竹宮恵子の「風と木の詩」という漫画に、娼婦と恋に落ちる良家の息子の話があるんです。娼婦と恋をしているということで、彼の両親は社交界の笑いものになって老けてしまう。しかも、二人が駆け落ちしてしまうので、両親は引退してしまうんです。
でも、息子が言うんです。「僕も彼女も、何一つ悪いことも間違ったこともしていないんです」本当にその通りなんですが、愛と正義を貫いたことで、両親に憂き目を見させてしまう。この矛盾は、中学生の私にも、感じるところがありましたね。
立場が変われば、世界はガラリと変わって見える。
これも、年ととるとよく理解できます。自分では加害者のような積もりで罪の意識を抱えていたのに、他の人から見ると、加害者は相手のほうじゃない?と、仰天するようなことを言われる。
理由を告げずに分かれたことについては、相当な理由がありそうですが、たとえ嘘の理由でも告げた方が相手のためだと思いますね。ある女性が、夫に、突然別れたいといわれたんですが、理由を一切言ってくれない。別れるという事よりも、理由が分からないということの方が辛いそうです。人を介して聞いたそうですが、頑として言わない。言わないのが思いやりと思っているのかもしれませんが、わたしからすれば、ひどく残酷なことだと思います。逆のケース(女性が理由を言わない)のも聞いたことがあり、男性は、当時うつ状態になってしまった、と教えてくれました。
嘘でもいいから、相手が納得するような理由を言わないと辛いですよ。
もし私が同じことをされたら、ああ、そんな浅はかな思いやりの無い奴なんだな、と心の中で見限るでしょうね。恋も冷めますよ。
>Yadayooさん
>見捨てた側にもさまざまな事情があると思いますが、
正に小説ではそこが問題で、見捨てたわけではなく過酷な理由があるのですが、詳しく書いてしまってもいけないかなぁと‥
彼女は悪人でも善人でもなく、強いて言えば犠牲者かもしれませんが、ある人たちからすれば冷酷な権力者かもしれず、
ドイツの抱える複雑な過去は、現在に続いている、といった感じでしょうか。
>自分の願望を交えて納得しようと努力します。
どんなことでもそうですね。どうにか自分を納得させること、これが一番難しいです。
自分に嘘はつけないから、納得できない状態でいる自分、というのは辛いものです。
ビートルズを積極的に聴いたことはありませんが、「イェスタデイ」は名曲ですね。
私は歌詞もよく知らないけれど、聴いているだけで切なさで心が苦しくなりますね。
こんにちは。
突然の別れというのはとてもつらいものだと思いますね。
これは小説の話ですが、現実の世界で起きる別れについても同様ですね。
病気とか事故という理由がそこにあっても、
なかなか納得のいくものではありません。
まして相手の意思により自分を見捨てたのだということ、
その理由を語らなかった、という経験は強烈だと思います。
ありとあらゆる理由と可能性を考え、自らを責め、相手に執着します。
自分の願望を交えて納得しようと努力します。
見捨てた側にもさまざまな事情があると思いますが、
弄んだとすれば本当に罪つくりですね。
でも現実にはこういうことはしばしば起きています。
ビートルズの『イェスタデイ』、アリスの『遠くで汽笛を聞きながら』という、
昔よく聞いた曲の歌詞を思い浮かべてしまいました。