経験できないことだから
『死ぬための教養』 嵐山光三郎 (新潮新書)
昨今、「死」より「老い」の方に注目が集まっているように感じるが、死と老いが順番どおりにやってくるとも限らない。
今は死にたくもないし、死んでる場合じゃないと思っているけれど、そういう時こそ前向きに死を考えられるんじゃないかな。
人は死を受け入れるために、処方箋としての宗教を信じることで、不安から逃れることができた。
信じる力のある人はそれでいい。
でも宗教を信じることの出来ない人は、死をどのように受け入れたらよいのか。
著者は、ただ「死ぬための教養」だけが必要になるという。
死に対する教養のみが、自己の死を受け入れる処方箋であるというのだ。
1942年(昭和17年)生まれの著者は、幼いときの戦争や、中年になってからの2回の吐血、交通事故など何度か死に直面した。
そんな体験を踏まえ、40数冊の「死」を色々な視点から捉えた本を紹介している。
いくつか未読既読あわせて気になった本。
・『大往生事典 作家の死んだ日と死生感』 佐川章 (講談社+α文庫)
明治・大正・昭和の作家達の死んだ日や死因、遣り残した仕事などが書かれているそうだ。
・ 『人間臨終図鑑』 山田風太郎 (徳間書店)
こちらは亡くなった年齢順に書かれているようだ。
こういう本は否が応でも人は死ぬもんだ、と言っている様なものだと思う。力ずくで納得させられそうだ。
・ 『唯脳論』 養老孟司 (ちくま文芸文庫)
脳から見た世の中、脳にとっての自分の死とは、などなど私にとって「脳元年」とも言える本で懐かしい。
当時まだ会社勤めしていた頃、渋谷の旭書店で買ったっけな。
心と身体じゃなくて、脳と身体という捕らえ方が新鮮だった。
・ 『楢山節考』 深沢七郎 (新潮文庫)
貧しい村の姥捨ての話だけれど、妙にサバサバしていて一種清浄な御伽噺を聞いている風でもある。
ほんの短い小説なので、再読してみた。何回読んでも不思議な小説だ。
おりんという老婆は、捨てられたのではなく、捨てさせたのだ。
この村では、介護問題なんか起こりようもない…ついでに人口問題もだけど。
人生の幕引きを自分ですることができた「おりん」は、幸福だと思う。
・『宇宙の意思』 岸根卓郎(東洋経済新報社)
嵐山氏をして、これを読んだらいつ死んでもいいという気なったという大著。
数学者である岸根氏は、数学にとどまらず、統計学、システム理論、情報理論、食料政策、国土政策、最後は宇宙法則説に立脚して東西文明の興亡=東洋の時代の到来を科学的に論じているそう。
う~ん、かなりハードルが高そうな本だけれど、読んでみようかな。
私は自分が敬愛していた作家が死ぬと、必ずその人の代表作を読むことにしています。作家が書いたものはすべての作品が、小説という形を借りた遺書であることを感じるからです。書店というのは「遺書の売り場」で、図書館は壮大なる「遺書の博物館」だと思います。(P90)
言われてみればナルホドそうだと思った。
そうして読んだのが、三島由紀夫→『豊饒の海』 川端康成→『山の音』 澁澤龍彦→『唐草物語』の「火山に死す」 だそうです。
・ 『生と死のコスモグラフィー』 山折哲雄 (法蔵館)
帯には“あの世を含む日本人の世界観・宇宙観の生成と変容の謎を、古代から中世にかけての豊富な図版で読み解く、仮説と創見を散りばめた山折日本学の集大成。”
惹かれるコピーではあるなぁ。
中で嵐山氏の選んだものが…読むのも一段と気合が入るという「性愛の秘儀化と即身成仏」の「真言立川流」
なんというか信者や僧や女性が酒池肉林、エロスとタナトスの神秘ワールド。
京極夏彦の『狂骨の夢』のキーワードになっていたような…。
・ 『死の日本文學史』 村松剛 (新潮社)
ヨーロッパ文化と日本文化の両方から死を見つめたユニークな本。
その中からの引用文がよかった。
死んだ人間は、もはや決して自他を欺くことがなく、自分を汚すこともないように見える。生を死が、洗うのである。死に仮託されるきよらかなイメージは、おそらくここに基礎をおいている。 (P98)
死を考えたり、美化したりするのは人ならではのこと。
なのに人は自分の死を経験できない。だから時に憧れたり、大方恐れたりするのだろうな。
“経験できないことだから” に対して5件のコメントがあります。
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だいぶ出遅れてしまった感のあるコメントですが。嵐山光三郎さんの愉快なエッセイを以前愛読してましたが、死をテーマにしたこの書に、自分の知らない書籍がズラッと並んでいることが、少なからず驚きでした。人により死を考え死と向きあうとき思い起こされる本というものが、これほどまでにちがうものなのかなぁという思いです。そんなことを考えているうちに、ボクが読んできたものはほとんどが、宗教者あるいは哲学者(かなり実存系)のものだったことに気づきました。立場としても、自分は宗教者のそれにとても近いと感じています。この本で紹介されているのは、はっきりと「非宗教」なんですね。帯にもそう書いてあるし。非宗教の範疇で、死を考察するという立場から得られる結論は、つまるところどのようなものなんでしょうか。死への教養という考え方にちょっと関心を覚えました。
なるほどね、「死」について真面目にとりくもうとする本を読むという姿勢の事をおっしゃっているのだとすれば、真面目という点で「教養」と結びつかないわけでもありませんね。
なんだか私がひっかかったのは、この本の題名だけでなく、帯のせいかもしれません。この帯があるせいで、内容を安っぽく伝えている感じがします。
「宗教」とはそれが本物の宗教であるなら、無教養でやたらと死後の世界や怨霊じみたことを怖がる人間に対して、信じていれば安心だとの免罪符を与えるようなものではないんじゃないかなと思うのです。信心と宗教をごっちゃにしてる感じがするのですね。
良く生きるということが大切なんじゃないでしょうか。宗教の役割もそういうものではないでしょうか。
作品は作家の遺書である、という言葉は正に真実ですね。この言葉だけで、この本を読んでみたくなりました。紹介されている本も、どれも面白そうですね。
ちょっと、ん?と思ったのは、死んだ人間は自分を汚すこともないように見える云々のくだりですね。その通りだといいんですが、怨霊だとか、自縛霊だとか、今、江原啓之さんなんかが盛んに言ってるでしょ?
死んでも未練が残る人が、家族にメッセージを残す番組を何度か見ましたが、非常に不快でした。私には。
死んだ人のメッセージを聞けなければ今後上手く生きていけないのでしょうか?死んだ人も、残されたほうも、エゴが強すぎる。所詮は自分たちのエゴにしか過ぎないことを、江原さんは美化しようとしている。番組中の彼はまるで教祖様です。
でも、エハラーと呼ばれる熱狂的ファンが多いそうですから、あまり書くとkyouさんに迷惑かけても困るので、やめておきます。自由なようで不自由な世の中ですね。
教養などというものがなまじっかあるから、人はなかなか死をうけいれられないのではないかなと思います。
自然界の生き物は頭であれこれ考えたり想像したりしませんものね。
五木寛之氏がこんなおもしろいことを書いていました。こんなような内容です。
「誰にでも平等に訪れるもの、それが『死』である。必ず訪れるものなのだから、怖がり、忌み嫌うことではないのではないか。」
言われてみればそうだな、とストンと心に響きました。
『宇宙の意思』岸根卓郎、という本が面白そうですね。
手強そうですが。
最近読んでいる本に、ある有名な逆説というのが引用してありました。
「死ぬ前に死ねば、死ぬ時に死にはしない」
というものですが、言葉遊びなのでしょうけれど、ある意味で「悟り」の境地にも思えるところが面白いです。
ともあれ、人は死に行く自分を体験できても、自分の死そのものを体験できない、あるいは意識することができない、、、だろう、というのは最大の逆説かも知れません。そこには、最早死ということさえもない、という。
深沢一郎は、もっとも気になる作家の1人です。