パラダイスは何処に
三の丸の若冲を見た後に、皇居の中を通って平川門から竹橋へ出た。
招待券を貰っていたので、東近美の「モダン・パラダイス」を見にやってきた。
“大原美術館と東京国立近代美術館—東西名画の饗宴”と銘打ち、19世紀後半から現代に至る様々な様式(印象派、表現主義、象徴主義、キュビズム、シュールレアリズム、抽象絵画、抽象表現主義、その他現代の~・アートと称されるものetc)の絵画・彫刻・写真が展示されている。
さらにそれぞれの作品を、様式を超えて5つのテーマ(Ⅰ~Ⅴ)に分けて展示してあった。
ちょっとその分け方の意図が難しい。
違和感をもつもの、何故これがここに?と考えてしまうものなど。
あえての問題提起なのかもしれない。
Ⅰ「光あれ」
光へのこだわりを中心にすえたものだ。
最初に目に入るのはモネの「睡蓮」やはり色の幅が凄い。
モネの絵は、脳の視覚情報処理の特定のモジュールを強調して表現したものとの見方ができるそうで、色彩モジュールを強調した結果、輪郭の認知を省略した形になる、と読んだことがあった。(岩田誠『見る脳・描く脳』)
ナルホド、久しぶりにモネを見て実感した。
菱田春草「四季山水」とペアになっていたけれど、共通点というより相違点がありすぎて…
これも「!?」と考えさせる狙いがあるのでしょうね。
以下印象に残った絵をつらつらと…。
妙な意味で強烈だったのは、ジョバンニ・セガンティーニ「アルプスの真昼」
この油絵の筆のタッチが、病的に思えてどうしても見ていられない感じ…
1センチくらいの細長いタッチが無数に虫のように残っていて、それが全面に広がっている。
草にしても、人にしても、空にしても皆同じような調子なのだ。
明るすぎる日差しに、アルプスが牧歌的というより人工的に見えて何だか恐いほどだった。
反対に良かったのが、アルベール・マルケ「マルセイユの港」
グレートーンのゆったりした筆遣いに、心もほっと和んだわ。
Ⅱ「まさぐる手・もだえる空間」
画家がアーティストとなり、アクション自体が表現になる・・
横山操「塔」とピエール・スーラージュ「絵画」が隣り合わせにあったことに、違和感があった。
方法としての黒と目的としての黒、同じように見える太い黒の線だけど意味が違うような?
Ⅲ「心のかたち」
関根正二、ココシュカ、マティスなど人物画が多かった。それとマーク・ロスコも。
中村彝「エロシェンコ氏の肖像」「骸骨を持てる自画像」がとてもよかった。
この人が長生きしていたら、どんな作品を残していたのだろうか?
自画像は初めて見た。
キリストのような容貌に黒いマントをはおり、長い指に骸骨がおさまっている。
見た瞬間、当たり前だけど抜群に上手い!というのと、これは早死にする顔だ、と思った。
だって、目がきれい過ぎて・・・
岸田劉生「麗子像」(麗子五歳の像)
これ以上の表現だとデロリになりそうなリアリズムがいい。
日本的な土着感とルネサンスの絵画が合体したような、濃厚な世界だ。
常設展の方も肖像画があって、そちらも良かった。
Ⅳ「夢かうつつか」
象徴主義やシュールレアリズム、広く幻想系といった感じと、人間の生と死、戦争に関わるもの。
ギュスターヴ・モロー「雅歌」と藤田嗣治の「血戦ガダルカナル」が同じテーマというのも…考えてしまう。
Ⅴ「楽園へ」
キーワードは、プリミティブなものへの回帰、ということのようだ。
ゴーギャン「かぐわしき大地」 土田麦僊「湯女」 棟方志功「双仏」 トーマス・シュトゥルート「パラダイス13 屋久島 日本」などがあった。
展示されていたゴーギャンやルノワール、萬鉄五郎の裸婦はどれも好きじゃなかったなぁ。
印象に残ったのは、岡村桂三郎「黄象 05-1」芦雪の象を彷彿させ、静かで神秘的な作品だった。
何しろ作品はバラエティに富んでいるので、好きな作品嫌いな作品がごちゃ混ぜ状態。
こういう展覧会は自分の好みが再確認できて面白かったし、絶対見に行かないであろうアーティストの作品を見る機会にもなった。
なんと言っても、様式で一括りにせず、故意にシャッフルしたことで見る者に考えさせる展示になっているように感じた。
東京国立近代美術館「モダン・パラダイス展」
“パラダイスは何処に” に対して1件のコメントがあります。
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こんにちは。
この記事のタイトル「パラダイスは何処に」を
そのままこの展覧会のタイトルにすればな~と思いました。
近美よりもkyouさんの方が内容上手いこと捉えてます!