風流の来歴
『無用者の系譜』 唐木順三 (筑摩叢書23)
「その男、身をえうなきものに思ひなして…」
伊勢物語の業平は自らを無用者とし、京を離れて東へ下りそこから、京に思いを馳せた。
京にいて雅にひたるのではなく、観念の世界で「みやび」を遊ぶ。
風流の風をいわば脳内に吹かせることによって、よりいっそう風雅に浸った。
著者は旧来には無かったこの観念世界の誕生を業平体験と言い、この体験なくして「もののあはれ」も、「みやび」もないとしている。
無用者のはじまりである・・・。
その系譜は業平から、一遍の先達や周辺の禅僧、芭蕉をはじめ江戸の俳諧師、徂徠門下の儒者、多くの文人墨客が連なり、明治の永井荷風へと続く。
捨てさり、外れ、逸脱し、自らを無用者として自覚して、実は果敢な行動者であると思う。
凡人は自分が世の中にある意味を探し、生きる目的を探し、利を求めるが、無用者は埒外にある。
その次元を超えたところに風狂、風流の世界が広がるのだろう。
上田秋成の世の捨て方は、興味深かった。
現世から一段下がるフリをして、上からものを言うのはよくある。
けれど、彼の場合は浮世から横っ飛びして、上でも下でもない幻想の異界へ身をおいた。
秋成は隠棲はしていてもひどく人間的で、宗教的なものも無ければ現世否定もなく、最後まで自己というものをもっていたと著者は言う。
孤独だけれど人間的で、善悪の世界ではなく美の世界に生きた、なんとも魅力的だ。
この無用者の系譜に女性はでてこない。
ある意味子どもを持つ女性は、執着の塊なのかもしれない。無用者にはなりえない存在と思う。
無用者が同時に、日本の芸術・文化の優れた体現者であることは間違いない。
少なくとも今までの歴史において芸術・文化が男性中心であったことの理由が分るような気がした。
“風流の来歴” に対して1件のコメントがあります。
コメントは受け付けていません。
無用者と芸術の関係は、興味深いですね。すこし逸れてしまうかも知れませんが、ふと思い出したのは、トーマス・マンの短編小説です。大分前に読んだもので題名も忘れてしまいましたが、「銀行員と芸術家の精神が、同じ個性の中には共存できないのだ」という表明がとても印象に残っています。堅実で健全なる生活者の銀行員と、生活自体を破壊してまで美を追求する芸術家や小説家とは、対極にあるのだという内容だったと思います。この辺は、自分でも大変興味あるところです。若い頃はそのとおりだと思っていました。でも最近はそう当てはまらない人もいるなぁ、と思うことも多いです。やはり変なコメントになってしまいました。