久しぶりに童話
『幸福な王子』(ワイルド童話全集) オスカー・ワイルド (新潮文庫)
「幸福な王子」他8篇を収録。
ネットで知り合った方の「わがままな大男」(収録作品)について記述を読み、惹かれるものがあって、何十年ぶりかでワイルドの童話を読んだ。
「幸福な王子」
美しい像である王子が、高みから眺めて初めて人の不幸を知り、旅のつばめを使って自らを飾る宝石や金を不幸な人々に与えていく・・
像は醜くなり打ち捨てられ、つばめも死んでしまうが、最後に神の救いがあるというご存知の方も多い童話。
人々は、王子が麗しい像の時は賞賛するが、醜くなるとあっさり捨ててしまう。
現実はそんなもので、飽きっぽく、あっけない。
王子は生前、悲しみや憂いを知らないがゆえに幸福な王子と呼ばれた。
しかし、それは幸福ではなくて快楽にすぎなかったのだと、王子は気づく。
死んで初めて不幸を知って、見返りを求めない愛を与えた。
だから、神が救ってくれて永遠の幸福を約束された。犠牲は報われ、真に幸福な王子となることができた ・・
では、不幸を知らずに死んだままでは、神の招待を受けなかったのだろうか?
愁いを知らずに一生を終えたままでは、天国には行けなかったのだろうか?
もしかしたら、寸でのところで王子は気がついたということなのか。
幸福にも気がついた王子、ということになるわけか・・
神の救いより何よりも、自分で気がつくということの大切さをしみじみ思う、今日この頃だ。
「わがままな大男」
大男は自分のすばらしい庭を独り占めしようとして、遊びに来ていた子供たちを追い出す。
すると庭は、その輝きを失い枯れ枯れとした冬景色へと変わってしまう。
やがて、独占欲を捨て、広い心で子供たちを受け入れると庭に春が戻ってくることを知る。
大男はきっかけを作ってくれた小さな男の子を探すが、その子のことは誰もしらない。
歳月は流れ、ある冬、大男は庭であの小さな男子を見つけるが・・・
春の庭で小さな子供たちが遊ぶ様子は、天使さながら。天国の庭のよう。
短いが神聖な光に満ちた心に残るお話だ。
大男と小さな男の子から、ずっと以前に読んだ『ジャン・クリストフ』を思い出した。
最後の方でクリストフが聖クリストフとなり、肩に「希望」を乗せ河を渡るという場面があったように思う・・それを思い出した・・確かあったと思うがな~。
久しぶりに神聖な「理想」ってものを読んだ気がする。
他の収録作品の中には、ワイルドらしく辛辣な戯画風なもの、逆説的なものもいくつかあり、それはそれで大変面白かった。
“久しぶりに童話” に対して1件のコメントがあります。
コメントは受け付けていません。
まったく記憶になかったのですが、kyouさんの記事を読み、王子の像と肩にのったツバメの「さし絵」を、見たことあるなと思い出しました。たしか50年は経っているとは思います。きっと、自分は絵本をたぐっていたのではと思います。なんだか茶色のよごれた像が街中に立っている絵でした。とてもなつかしい気持ちになりました。ボクの感想をちょっと・・・幸福な時代の王子には、他者が住んでいなかった。自分だけ閉じた世界で幸せだった。他者を知らないという理由で、閉じられた世界で幸福だった。貧しい人がいること、不幸と思われる境遇の人がいること、そのことを王子が知ってしまったとき、自分ひとりの世界は壊れてしまった。世界は不幸に満ち、複雑で、よごれていて、煩雑だった。しかしながら、他者への理解という道が開けた。哀れみや愛という関係が生まれた。そう気付いたとき、王子は、どう受け取ったか・・・不幸と感じたか、真の幸せと感じたか・・・そして幸せとはなんだろうか。王子は最後に自分をどう見たのか。そして神はどう見たのか。そんなこと思いました。