めずらしく恋愛小説
『海市』 福永武彦 (新潮文庫)
先に読んだ倉橋由美子『偏愛文学館』に紹介されていた本から『コスモポリタンズ』に続き2冊目。
倉橋氏をして「恋愛小説といえばまずこれが頭に浮かぶ」と言わしめているので、さてさて、どんなものかしらと読んでみることに・・
海市(かいし)は蜃気楼の意だという。
主人公の澁太吉は、抽象画家で同じく画家であった父のアトリエで制作をしている。
戦中派の彼は戦争で死ねず、かつ心中の生き残りでもある。さらに、現在は妻と子供、実母と暮らしているが、妻とは離婚を考えている最中だ。
そんな彼がある日、旅行先の南伊豆で安見子という名の女性と運命的な出会いをする。
小説のキーワードは、愛と死、それに絵画。
なんと言っても、構成がとても面白かった。主人公の時間軸の合間合間に、彼を取り巻く人物たちの描写が挿入され、また彼の過去も断片的に挿入されて、次第に立体的に全貌が、あたかも蜃気楼のように立ち上って見えてくる。
ラストは秀逸。まるで絵画の地と図が反転するかのような、あるいは、見るものと見られるものが逆転するかのような衝撃があった。
愛し合うもの同士でも、男と女では見方、感じ方がまるっきり異なる。
それを具現化したラストは、一枚の絵画として鮮やかに読者の目に残るように思った。
澁は、その人生から虚無的な人間として描かれている。そして彼に翻弄されるのは、彼より現実感が乏しく、どこか儚い女たちだ。
普通の女はもっと逞しい。
反目しあう妻と実母が、子供の病気の時に見せた強かさこそ、現実感だ。
実際、負の渦を持っている人というのはいると思う。
出来れば遭遇したくないタイプではあるが。