「クラーナハ展」「シーボルト展」
ずっと楽しみに待っていた「クラーナハ展-500年後の誘惑」を上野の国立西洋美術館で見てきました。これだけ多くの作品が一度に見られる機会はめったにありません。
クラーナハというと陶器のような肌と冷酷な眼差しの独特な女性像を思い浮かべますが、今回はそういった女性像に匹敵するほど素晴らしい肖像画を見られたことが大きな収穫でした。
特に、板に油彩の《ザクセン公女マリア》、地塗された紙に油彩の《フィリップ・フォン・ゾルムス=リッヒ伯の肖像習作》が心に残りました。共に小さな作品ですが人物の内面までが映し出され、静かな画面の中にクラーナハの気迫や自信が感じられるようでした。
クラーナハの描く女性の顔や裸婦のフォルムは、いわゆる均整のとれたギリシア的な美しさとはかけ離れていると感じます。そして、むしろ微妙なズレや不均衡なところにこそ抗いがたい魅力があるのではないかと思います。
また、自ら切り取った敵将の生首を掴んでいるユディトの爬虫類のような冷ややかさ、ヴィーナスの裸体を隠すのではなく強調するためにあるベールなどは、相反する要素を巧みに画面に取り込んで鑑賞者を誘惑し彼らの所有欲を一段と高めたに違いありません。それは画家としての腕の見せ所とも言えますが、自身の個人的な嗜好や女性という底知れぬ存在への偽ざる感情にも思えました。
本展でユニークだったのがクラーナハに触発され制作されたピカソや現代の画家たちの作品でした。
中でもレイラ・パズーキによる「ルカス・クラーナハ(父)《正義の寓意》1537年による絵画コンペティション」は問題提起と面白さで秀逸でした。
どういうものかと言いますと、西洋絵画の複製で世界的に有名な中国の大芬油画村で大勢の画工たちがクラーナハの《正義の寓意》を6時間以内に描くというワークショップを行い出来上がった模写をずらりと壁に掛ける、というものなのです。歪で醜悪な《正義の寓意》の洪水はインパクト大です!
余談ですがルカス・クラーナハという日本語表記は初めて見た気がしました。ずっとルーカス・クラナッハと見聞きしてきた気がします。これからはルカス・クラーナハなのかしらね。
当日もう一つ、国立科学博物館で開催中の「日本の自然を世界に開いた シーボルト展」も見てきました。
シーボルトの生い立ちから日本での植物採集や植物学者としてフロラ・ヤポニカを著したこと、さらには動物や鉱物にも造詣が深いことをコンパクトにまとめて展示してあります。
それほど数は多くありませんでしたが植物標本や植物画は興味深く、写真のない時代に欠くべからざるものであった細密な植物画は今でも十分に美しく、描くのにどれほどの苦労があったことかと感慨深かったです。
西洋では昔から白いユリが純潔の象徴として聖母マリアや天使ガブリエルと共に描かれていますが、シーボルトが日本から持ち帰った植物の中で最も注目されたのがユリだそうです。
大きな花をつける日本のテッポウユリの到来で従来からあるニワシロユリ(マドンナリリー)の価値が下がってしまったとのこと、またカノコユリは花弁にルビーやガーネットがついていると形容されたそうです。
展示はごく一部を除いて写真撮影が可能なのでとても便利で助かりました。
“「クラーナハ展」「シーボルト展」” に対して4件のコメントがあります。
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>後藤純一さん
ご無沙汰しております。コメント有難うございました。
そうですね、あまり後藤さん好みではない感じがしますが。
とても好みの分かれる画家かもしれませんね。
私は今回エキセントリックな女性像よりシンプルな肖像画にとても惹かれました。多角的な展示も面白かったです。
それほど関心のある画家ではないのですが、
この人の美術展が日本で開かれると聞いて
ちょっと驚きました。
あまり人は入っていませんでしたが、良い
展示でした。
>ワインさん
>最近は日本でも、クラーナハ展のような西洋の古い時代の絵画展が多く展示されるようになりましたね。
そうですね。昔からルネサンスあたりの絵が好きなので有り難いことです。
今回はちょうど好きなものが2つあってラッキーでした。一つずつ来るのも大変ですから。でも、シーボルト展の方は小規模でしたから少し楽でした。以前はよく展覧会のはしごをしていたのですが、最近は一つ見るとヘトヘトになってしまいますよ。
二つの素晴らしい展覧会にいかれたkyouさん、ブログにアップしてくださってありがとうございました。こういう日記を読むと、ますます行ってみたくなりました。最近は日本でも、クラーナハ展のような西洋の古い時代の絵画展が多く展示されるようになりましたね。とても素晴らしいことだと思います。この頃、だんだんと東京まで絵をみるために足を伸ばすことがおっくうになってしまって、これじゃあだめよねと自分を戒めています。