「没後40年 高島野十郎展」

 目黒区美術館で開催中の「没後40年 高島野十郎展」を見てきました。

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 作品は代表作を含む140点以上が初期作品、滞欧期、風景、静物、光と闇の5章に分けて展示され、中学生の時に描いた油彩や大学時代の魚類の観察図などの資料もあり全貌を知ることが出来る内容になっていました。

 野十郎作品で一番好きなのは静物画で、持っている画集の表紙にもなっている《割れた皿》も初めて見ることができました。

 割れた皿の断面の白が印象的で美しく、1枚の割れた皿をここまで奥深く魅入らせる作品の力は凄いとしか言いようがありません。

 わざと割るような意図的なことをするとも思えないので、偶然割れたことで美しい断面が現れてそれが作者の琴線に触れたということかと想像しました。皿の新たな美しさを発見した思いだったのではないでしょうか。

 《さくらんぼ》は白地に20個ほどのサクランボが描かれたもので、皿の中にあるものと外にあるものが逆三角形に配置されています。この∨字型の構図はいくつかの作品にも見られます。

 それぞれのサクランボの色や形、果柄の曲線も一つずつ異なっていて、小さな果実に対する画家の慈しみがつたわってくるようでした。また実際に見ると、キャンバスの布目が透けて乳白色の絵具がテーブルクロスのように見えるのも素晴らしかったです。

 その他にも《洋なしとぶどう》《すもも》など果実を描いた作品は皆いつまでも見ていたいほどでした。

 風景画は何気ないというか何も無いというか「こんな場所が絵になるのか」という場所が描かれている作品があり、それが何とも味わい深いものになっているのに驚かされます。

 特に《古池は》画面の大半が茶色い古池と薄茶色の枯れ草だけの作品ですが、その風景を見た時にここを描こうと思った感性の鋭さとそれを作品に仕上げる執念が凄いと思いました。

 

 《流》という作品は、渓谷の岩と真ん中に波飛沫を上げる急流が克明に描かれています。解説によると、野十郎が岸辺に立って何日も眺めていると、川の流れが止まって逆に周囲の巌が流れるように見えてきたというのです。

 なるほど有機的な動きを感じさせる岩はそういうわけだったのかと合点がいきました。どちらかというと静的な野十郎作品の中にあって《流》は水と巌双方の躍動を描いたダイナミックな作品で、作者の底知れぬエネルギーが伝わって来るようでした。

 会場の最初の展示は中学生の時に描いたという《蓮華》で、池から伸びる花や葉が写実的に描かれたもので仏教的な雰囲気があります。そして野十郎の絶筆となる作品も同じように水に浮かぶ《睡蓮》で、睡蓮には棒杭が描かれていて仏様のようにも見えます。二作品を貫くものがとても象徴的に思えました。

 会場は思いの外空いていたので、野十郎の神々しい月や日、祈りのこもった蝋燭をじっくり見ることができ貴重な時間を過ごせました。

「没後40年 高島野十郎展」

過激な隠遁―高島野十郎評伝

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以前書いたブログはこちら→http://d.hatena.ne.jp/kyou2/20100219

高島野十郎画集―作品と遺稿

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 「没後40年 高島野十郎展」” に対して2件のコメントがあります。

  1. kyou2 より:

    >ワインさん
    今回はワインさんの方が早く行かれて、私も絶対に見たいと思って行きました。これほど沢山の野十郎作品を見たことはなかったので本当に感激しました。

    >写実というよりも、超写実といった感じがします。絵にしたときにその「物」の本性が見る者の目に観えてくる
    全く同感です。私も写実って一体なんだろう、先日見たカラヴァッジョの写実との違いは何だろうと考えさせられました。

  2. ワイン より:

    kyouさん、こんにちは。高野野十郎の名前を知ったのは、以前kyouさんが書かれたブログを読んでのことでした。kyouさんの展覧会の感想をかかれた文章はとてもよみごたえがあって、いつも感服しています。割れた皿、私は断面には気づきませんでした。陶器は割れて砕けたときに生地の質感がより強く伝わってきますね。割れたときの音が聞こえてくるような気がしました。
    高野野十郎の絵をみていると、写実というよりも、超写実といった感じがします。絵にしたときにその「物」の本性が見る者の目に観えてくる、という感じでしょうか・・

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