『須田国太郎 絵画を読む』

『須田国太郎 絵画を読む』  後藤純一/著  (テクノネット社)

本書は洋画家・須田国太郎(1891~1961)の初期から晩年までの作品を、膨大な資料と、丹念な美術館めぐりをとおして、分析し読み解いたものだ。

須田作品は人物像や人生から読み解き得ない闇を持つという。著者は作品の画面を徹底的に分析し、須田が描きたかったもののみならず、本人さえ意識していなかったものまで明らかにしているように感じた。その深い洞察に裏打ちされた独創的な解釈は、実に説得力のあるものだった。

あとがきに「誰も自分の個性を通してしか、絵を見ることはできない。」とあったが、著者の姿勢は鑑賞者としてこちら側に軸足を置くのではなく、須田本人の側に軸足を置いて画面の隅々までを見ているように感じた。そのため、作品の考察や解釈は著者の個人的な感情が極力抑えられ、須田本人の思考や意図をくみとった、ぎりぎりの形での文章表現になっているように思った。作品の解釈とはそういうものだとは思うが、著者と画家双方の強い意志が感じられるようだった。

ところで、須田国太郎と聞いて、すぐ名前と作品が浮かぶという人は、あまり多くはないのではないだろうか。私自身も作品は殆どが画集で、実作品は大きな展覧会の中に何点かあるのを見た程度だ。

本書に出てくる作品についても途中に載っている白黒の図版(巻頭カラー数点)と、著者が書いた文章から想像するしかなかったが、文章に従って色を付け、形を浮き上がらせ、さて、この後どう解釈していくのだろうと思うと、ワクワクするような楽しさがあった。機会があったら実物を見ていたいと思ったことは言うまでもないが。

印象に残った文章を1つ。

この過程は、風景画で言えば実風景を凝視しそこから内面的な道筋に入っていく働きであり、画面を通して自分がどこにいるのか、内面の位置を確認していたのだろう。須田は自問自答をしながら絵を描いていた。構図はもちろん自分が今描いている線や色に、自分はなぜこう描くのか、自分の中のなにがこう描かせるのかと問い詰めながら絵を描いていた。また、絵画空間の中に自分を開放したい気持ちの手綱を締め、その時々の思いが作る表現に歯止めをかけようとしているように見える。その複雑なタッチが作る絵肌は、いろいろな角度からなされた「批評」が作りあげたものだ。その視界に入ってくる「ある」ものと内面とのせめぎあいが平衡するする位置で、ようやく画家は完成として筆をおいたのであろう。    (p95)

須田国太郎は京大で美学・美術史を学び、教鞭もとったことがある人物で、「学者か画家か」と、色々な意味で言われ続けたと書かれていたが、私にはどちらでもよいことのように思えた。
問題は「本人が画面上でしか成し得なかったことがあるから描いた」ということだと思う。
絵を描くことは須田にとって自分と世界の橋渡しであったのだろう。画面に様々な矛盾や混沌を落とし込み違和感と格闘することで、自分の存在に形を与える場だったのかもしれない。

評論というのは新しい価値の創造であると読んだことがあるが、それを再確認させてくれた一冊だった。
現在開催している展覧会

生誕120年記念 須田国太郎 ―珠玉の上原コレクション―

須田国太郎の作品(終了した展覧会より)

『須田国太郎 絵画を読む』” に対して4件のコメントがあります。

  1. kyou2 より:

    >後藤純一さん

    > わたしのブログでこの書評を紹介させて
    > もらっていいですか。
    こちらこそ、紹介していただけて光栄です。
    なにぶん須田国太郎初心者なもので、本を読んで色々教えて頂きました。
    私事で恐縮なのですが、もともと水彩ではなくて油絵を描いていたので、油絵の感触が懐かしくなりました。
    《窪八幡》の解釈が素晴らしいと思いました。特に最後の文章がとても印象に残りました。
    私も《窪八幡》は形と色がピタリと調和した雲間の光のような作品だと思いました。

  2. 後藤純一 より:

    kyouさん、書評をありがとう
    ございます。
    丁寧に読んで頂いて、作者冥利につきます。

    わたしのブログでこの書評を紹介させて
    もらっていいですか。

  3. kyou2 より:

    >みちこさん

    >絵を見る前に説明文を読んでしまう。自分はなんでも理屈から入る性質で、感性派じゃないとつくづく思う、と言った人がいました。
    題名も、説明文もない展覧会があったら面白いでしょうね。皆、ちょっと開放された感じかもしれませんね。

    >評論家と詩人は似ていますね。対象物のエッセンスを、自分がどんなふうに捕えたのか、言葉で相手に伝えますから。
    なるほど。やっぱり感性がものを言いますよね。とらえ方のセンス、文章のセンスとか。

    >相手に納得させるだけの素材を揃えないと本は書けないでしょうから、ずいぶん長い旅路になるのでしょう。
    努力と熱意。それと長い旅路を乗り切る体力も要りますね。

  4. みちこ より:

    絵を描くことは須田にとって自分と世界の橋渡しであったのだろう。画面に様々な矛盾や混沌を落とし込み違和感と格闘することで、自分の存在に形を与える場だったのかもしれない。

    この文章がいいですね。

    知り合いで、美術展に行くと、絵を見る前に説明文を読んでしまう。自分はなんでも理屈から入る性質で、感性派じゃないとつくづく思う、と言った人がいました。

    評論について、これまで考えたことがなかったのですが、このブログを読んで、感じるものがありました。
    評論家と詩人は似ていますね。対象物のエッセンスを、自分がどんなふうに捕えたのか、言葉で相手に伝えますから。
    そして、推測する楽しさ、醍醐味がありますね。探検家とも似てる。自分がこれだと確信したことを裏付ける証拠を探すわくわく感。相手に納得させるだけの素材を揃えないと本は書けないでしょうから、ずいぶん長い旅路になるのでしょう。

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