『絵を描く悦び』千住博 (光文社新書)

千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書)

『絵を描く悦び』千住博 (光文社新書)

日本画家である著者が、芸大や美大での授業を軸に、絵を描くことについて、根源的なことから具体的なことまでを記した一冊。

果物や野菜が一つずつ細密描写されている作品があるとします。描いてあるものは存在感があり、なかなか魅力的なのですが、描いていない部分がよく見えないことがある。これはその描いていない部分が余白として機能していないからです。余白がたんなる塗り残しの、宇宙の外側のような、と言うのでしょうか、意識の存在しないような空白の場所になってしまっているのです。描かれていない部分が、魅力的に描いた細密描写の世界の邪魔をしているのです。 (p21)

私も含めて植物画を描いている人には、恐い言葉だ。

なるほど優れた植物画は、白い紙が描かれた植物を包みこむ美しい空間となって、描かれた植物をより魅力的に見せてくれるものだ。

余白への意識によって、白い紙は味方にも敵になりうる。

夢中になって描くだけなら、山のように描いてそれを押し入れにしまってすませばそれでおしまい。あえていえば、それは祈りのようなものです。

でもそうではなくて、今ここで言いたいことは、人に見せるということ。見せてはじめてコミュニケーションが成立します。アートとは社会をつくっていくことです。コミュニティを成立させることです。 (p57~58)

祈りとアートの違いや関係はとても興味深い。同じ章で、アリストテレスの「アートとは人に見せたくなるもののことをいう」という引用があり、核心をついた面白い言葉だなぁと思った。

何でも表出しなければ、人に認知されなければ、とりあえず、始まらない。

それにより私は何を感じたのか。私にあるものは何か。私がやりたいことは何なのか、ということが画面全体から伝わってくることになるのです。そしてなるほど私はこういうことを言おうとしたのか、と描いてみてはじめて本人もわかるものなのですね。自分を知るために描くようなものです。なるほど、私とはこういう人間なのか、と絵は教えてくれます。 (p64)

どういう絵を描いていても、絵にはその人が出ているものだ。

個性云々の問題ではなく、作品は作者の分身なのかもしれない。そして、優れた分身はどんどん一人歩きするものだ。

結局、個性とは、消そうとしても浮かび上がってくるもののこと。にじみ出てくるもののこと。付け加えて出してゆくものではないということがここからもわかります。自分の中から「癖っぽさ」や「あく」、「性格的なこだわり」とか「思い込み」、これをどうやって取り除いていくか。そのあと、ここには「個性」が美しく残ります。(p71)

素直に見て、素直に描くのが良い。とあったが、これが一番難しい。

自然の形や線を素直に写したものは、やっぱり美しいと思う。意味なく形を自己流に変形したからといって個性的なわけでもない。

取り除いていくのも苦労するが、残ったものを磨いていくのも大変だ。

本の中でしばしば「夢中に」という言葉があったのが印象的だった。

「とにかく夢中になることです。でもこれは一生懸命とはまったく違います。」これは我が身を振り返って、とても思うところがあった。

読み終わって、「之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。」という言葉を思い出した。

どんな事でも、知って、好きになって、それを楽しんでこそ向上していく。楽しいからもっと知りたくなり、もっと好きになって、‥‥その繰り返しだ。

夢中でそうする何かがある。それが幸せなことなのだと思う。

『絵を描く悦び』千住博 (光文社新書)” に対して2件のコメントがあります。

  1. kyou2 より:

    >ワインさん
    恥ずかしながら千住さんの絵は画集でしか見たことがなく、何も知らないで読みました。
    正直、絵を描く行為についてコミュニケーションとかコミュニティという捉え方をしたことがありませんでした。そういうのは現代美術の考え方のような気がしていました。言われてみれば、なるほどと思いましたが。
    コミュニケーションの問題は、描く行為とは切り離された作品の独立性を感じました。

  2. ワイン より:

    『絵を描く悦び』、私もずいぶん以前に読みました。こうしてkyouさんの感想とともに本の中に書かれている抜粋を読んでみますと、大切なことをおっしゃっているのがとてもよくわかります。ご自分の内側から出る言葉で平易に語っておられるところが、千住さんのすてきなところですね。
    人に見せて初めてコミュニケーションが成立する、アートとは社会を作っていくこと、という言葉はとても新鮮かつ重要だと思いました。芸術家はだれのために、だれにむかって作品を描くのかということを論じる人が少ないように思いますが、kyouさんはいかがお感じになりますか?

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