『「悩み」の正体』
『「悩み」の正体』 香山リカ (岩波新書)
へー、正体が分かるのか?とタイトルにつられて読んでみた。
患者さんに接している著者によると、近頃の悩みは10年、20年前だったら悩みとして取り上げられなかったようなものまで「悩み」として昇格しているのだそうだ。
先ず、「これはそもそも「悩み」にふさわしいものか?」と「悩み」そのものを疑ってかかる必要があるという。
また、いまどきの「悩み」には、“いま”と“そもそも”という二つの次元の対処が必要なのだそうだ。
例えば、祖父と二人暮らしのある女性は、祖父の介護とそれに伴う失業でうつ状態になり、著者のもとを訪ねて来た。
彼女には薬の処方とカウンセリング、それとより良い介護サービスが受けられるように役所に働きかけるという2段構えの対処が考えられるとのこと。
いつの時代にも普遍的な悩みと、いまどきの悩みがあるのだと思う。社会情勢に左右されて悩むのは、なにも今に始まったことではない。10年後にはまた、違った悩みが発生しているだろう。
たぶん、変化したのは精神科へのかかり方なのだと思った。
読んでいると、実に様々な悩みを抱えた人が精神科に助けを求めてくる。これでは「よろず人生相談」だ。
私の身近な人も精神科や心療内科へ通っているので、ハードルが低くなったことは勿論とても好ましいことだと思っている。
ただ、本来的に精神科の治療が必要な人とは別に、何人かは精神科へかかる前に原因をしかるべき機関で取り除くノウハウがあったら、いや単純に、真剣に相談できる相手がいたら、最初から心身に不調をきたすこともなく、精神科を訪れる必要もなかったのではと思うのだ。
私には「そもそもこの悩みは精神科にかかる悩みだろうか?」「どこにも、誰にも相談することが出来ない社会が問題なのではないか?」といった著者のボヤキが聞こえてきそうな感じがした。
読んで一つだけ良かったのは、日常生活で悩みが出てくるのは当然で、問題なのは悩むことで日常生活が立ち行かなくなること、前者と後者は全く違うという当たり前の事を確認できたことだ。
悩むから成長できるとも言えるのだから、悩まないことが良いわけではない。
でも、悩みが日常生活を覆い尽くし、人生を閉じ込めてしまっては本当に辛いことだ。
ふと、私は日常生活で悩みというより「心配」が多いなぁ、と気づいた。‥‥悩みと心配の違いも何だかよく分からなくなってしまったが。
まあ、悩みすぎてもしょうがないか。
“『「悩み」の正体』” に対して6件のコメントがあります。
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> みちこさん
> かいつまんで言うと、介護は辛い。それは当然なのだけれど、介護する間も無く家族を突然失うのも辛いから、介護を幸せという人もるっていう話でした。
> 馬鹿馬鹿しい、と思いましたが。
そうですね。介護する側される側、それに至るまでの親子関係があるわけで、介護はあくまでそういう親子の歴史の最終章だと思います。
辛いとか辛くないとか、他人が口出しするものでも、比べるものでもないと思いますが。介護だけを取り出して、幸不幸を言う意味が分かりませんね。
何だか、子供がいる人といない人で幸不幸を論争するのと同じくらい不毛な感じがします。
> 頑張ってと言われて、拗ねたり恨んだりするのも、甘えと言えるでしょうね。
確かに頑張れは禁句とよく言われますが、最近はもう少し頑張ってみてと言った方がよい患者さんもいるそうですね。精神科医は見極めが難しい仕事ですね。
>身を入れて相手の訴えを聴くのもほどほどにする癖は付いているんではないかしらん。
あはは。そう言うと角が立ちますが、プロとしての話の聞き方があると思いますよ。
この間の新聞記事に、変った介護論争が載ってました。
介護は不幸か?幸せか?というものです。
かいつまんで言うと、介護は辛い。それは当然なのだけれど、介護する間も無く家族を突然失うのも辛いから、介護を幸せという人もるっていう話でした。
馬鹿馬鹿しい、と思いましたが。
そんなこと言ってたら、1ヶ月くらい介護させてあげて死ぬのが理想かとかなんとか、そんな落ちになってしまうんじゃ…
下らないことで悩んでいる人に限って、そんな下らないことで?と言われると、激怒するんでしょう。
頑張ってくださいとうつ病の人に言うのは禁句になっていますが、分からないでもないけれど、頑張ってと言われて、拗ねたり恨んだりするのも、甘えと言えるでしょうね。
精神科医は、日々そういう人たちと接しているので、身を入れて相手の訴えを聴くのもほどほどにする癖は付いているんではないかしらん。
>ワインさん
>あげくのはてに医者へ・・というのが今の社会なのかもしれないですね。
そうですね。人間関係の中でも、会社とか学校の仲間とか「準パブリック」の間で空気を読み合い、少数派にならないように神経をすり減らしている、というのが興味深かったです。
> でも人ってなぜだか亡霊みたいなものをひとりでに膨らませてしまう傾向があるようでこわいです。
膨らんだものを自分でガス抜きできるのが大人、年の功なのかも。
でもこのごろ、何でも自分でと構えすぎていると疲れちゃうなと思うことも。
人と関わりながら自分を癒せる人はすごいと思うことがあります。
もしかしたら家族とか友達とか親とか、ご近所さんとか、そういう身近な人にちょっと愚痴を言ったり相談に乗ってもらったりすることで解決するような問題がたくさんあるのに、それができなくてたまりにたまって、自分の中でごちゃごちゃに絡まってしまい、あげくのはてに医者へ・・というのが今の社会なのかもしれないですね。
「正体」とはつまり「原因」のことでしょうか。それがわからないから不安になるのでしょうね。わかってしまえばたいしたことなかったと気づくのにね。亡霊みたいなものですね。
でも人ってなぜだか亡霊みたいなものをひとりでに膨らませてしまう傾向があるようでこわいです。
>弥勒さん
ご無沙汰してます。コメントありがとうございます。
>悩みというのは苦しんでいる自分を美化している言葉だ。悩みといわずに苦しめばいい。
なかなか厳しい見方ですね。弥勒さんは「悩み」という言葉に、どこか甘えのようなものをお感じになるのかもしれませんね。
> 「タイムリミットまではいくら考えていてもいい。」とも。タイムリミットを読み取る能力も含めてですね。
そうですね。「下手の考え休むに似たり」ってこともありますから。
でも、日常生活でタイムリミットを設けるのは結構難しいことですね。会社の仕事では、はっきりとした線引きができそうですが。
> 心配にもタイムリミットがありますから。
タイムリミットもありますが、心配の状況も時間と共に変化します。心配なんて、どんどん生まれてくるものだから、全部引きずっていくことなんてできないですよね。
>悩みと心配の違いも何だかよく分からなくなってしまったが。
昔、上司と議論したことがありました。
「悩みってなんですか?」って。
上司は「考えても答えの出ないことだ。」と言ったのですが、私は「私には悩みは無い。考えること、答えの出ないことはいっぱい有るけど、そのことで悩みとは言わない。悩みというのは苦しんでいる自分を美化している言葉だ。悩みといわずに苦しめばいい。」って。
その上司、別の時に、「あらゆる自分なりの結論はタイムリミットまでに出さなければならない。」って教えてくれたんです。「タイムリミットまではいくら考えていてもいい。」とも。タイムリミットを読み取る能力も含めてですね。
心配が多いのはいいですよ。考えることが多いということですから。でも、、、
>まあ、悩みすぎてもしょうがないか
心配にもタイムリミットがありますから。