『太陽を曳く馬』
『太陽を曳く馬』上下 高村薫 (新潮社)
本書は『晴子情歌』『新リア王』に続く三部作の完結編。
『新リア王』で主人公であった福澤榮は既に亡くなり、彰之の息子・秋道は画家として東京に暮らし、彰之もまた東京で修行の日々を送っていた。
そんな中、警視庁刑事・合田雄一郎は二つの事件を捜査することになった。
一つは、秋道がアパートの部屋中を赤く塗り尽くし、風呂場で出産直後だった同居女性を金槌で叩き殺し、さらに面識も無い隣家の学生をも同様に殺害したという不条理な殺人事件。
もう一つは、元オウム信者の青年僧・末永和哉がトラックに轢かれた一件。末永は彰之が始めた都心にある永劫寺サンガで坐禅をしている僧の一人だった。自殺か他殺か、彼の死を通してサンガ内での対立や戸惑が見えてくる…。
折しも、アメリカ9.11同時多発テロが発生。一瞬にして多くの生命が失われ、合田の元妻もその犠牲となっていた。
合田は理不尽な死を前に、宗教や救いについて、自己存在の不確かさについて思考の闇に落ちていくのだった…
生前、末永は赤く塗り尽くされた部屋についてバーネット・ニューマンの《アンナの光》を思い起こしたと彰之に手紙を書いた。
本書では現代美術、特に抽象表現主義のバーネット・ニューマンやマーク・ロスコのカラーフィールド・ペインティングについての考察がとても興味深かった。
カラーフィールド・ペインティングは、中心や見るべき対象を持たず、言語化できる内容を持たない、拡散していくような巨大な色面が特徴だ。意味や言語から逃れ、それ自体として存在する何ものかだと思う。
以前、(ロスコの作品だったと思うが)作品と相対した時、色に飲み込まれるような、時間が止まったような感覚があったのを覚えている。
私は坐禅をしたことはないので想像でしかないのだが、自己の心身を無にする意味も言葉も無い世界が、カラーフィールド・ペインティングのそれに通じるような気がした。
宗教、坐禅、オウムについて僧同士が議論をするが、宗教用語が満載の宗教論は難しく、多くは理解できなかった。
分からないながらも時折はっとする言葉があって、考えさせられた。
末永が〈私〉の存在について思考のギリギリの地点にいるとき、彰之が話した言葉。
…君のいう〈私〉は不可能なものから逃れようとして、その当の不可能なものを問い続けること、そのことに満たされて生きているのだろう。そうだとすれば、君の〈私〉にとっての問題は逃れられるか否かではなく、問い続けられるか否かになろう。ならば、問い続けよ… 下巻(p320)
問い続け、行脚する。これが彰之の姿勢であり、彰之という人間に感動を覚えるところだ。
「そうです。解くことができない限りにおいて、どんなふうにでも開かれうる可能性を孕んで、何がしかの形が生まれてゆく動力そのものであるような問いです。解くものではなく、問であることが唯一、私が生きていることの証であるような問いです。(中略)問いを立てる個体としての私は、戯論ではなく、ここに現に生物学的に有る、と申しておきます。世界を把握し続ける動因として、世界に向けて未決定に開かれた個体として有る、と」 下巻(p236)
ラストの数十ページは、彰之から拘置所の秋道に送った手紙が続いている。
それは晴子の手紙と円環をなしていて、仏家としての言葉ではなく、一人の父親としての言葉が綴られているように思った。
もはや言葉もなく、弱々しく自分を曝け出している姿は、人間として普遍的なものは何かを教えているように感じた。