『新リア王』
『新リア王』上下 高村薫 (新潮社)
高村薫の『太陽を曳く馬』が去年上梓されて、『晴子情歌』『新リア王』『太陽を曳く馬』の三部作が完結した。
『晴子情歌』しか読んでいなくて気になっていたが、やっと『新リア王』を読み終えた。
『晴子情歌』は、晴子が遠洋漁業の船に乗る息子・彰之に送った手紙が中心となっていたが、『新リア王』では彰之の実父・福澤榮と彰之の対話が中心となって物語が進められている。
その対話は、細かい言葉の応酬というのではなく、互いに政治家と禅僧として自己の存在をかけた、一つ一つが厳しく重みのあるものだった。
草庵での四日間という凝縮された時間の中での、正に圧倒的な言葉の力だった。
物語は1987年のある日、青森の野辺地で300年続く大家の当主で自民党代議士の福澤榮が、雪深い筒木坂の草庵に実子・彰之を訪ねるところから始まる。
榮は75歳、40年間代議士として中央政界の要職につき、地元では福澤王国の王として君臨していたが、前年に義理の甥で榮の資金管理担当秘書・保田英夫の自殺、同じく政治家である長男・優の裏切り、長年にわたる福澤家の人々に対する憎悪や疑念が渦巻いていた。
一方、彰之は船から降り、禅僧として永平寺でも修行に励んだが、未だ闇の抱えており、さらに引取った息子・秋道は不良少年で、新たな混沌と絶望の種が蒔かれたのだった‥‥
榮の周辺にいる政治家は実名で書かれ、誰でも知っている名前が溢れ、榮が説く自民党政治の内実は実にリアルで、著者の力量には敬服するばかりだ。
先ほど国会は人で動くものだと言ったが、政治の世界で人を動かすのは実は、論理や損得以上の何かそういうものであって、なまじ中身が詰まっておる奴ほど魅力に乏しいのがこの世界なのだ!だから君も、先ずはここにおる私を買いかぶらないほうがよい。一線を退いたこの老体に魅力があるとは言わぬが、少なくとも四十年も政界で生きてこられたのは、この私がとりもなおさず十分に空っぽであった証かも知れないのだから。 上巻(p117~118)
彰之は永平寺で三年坐禅して「生死に薄昏い違和感しか感じない、中空のような自分」を認識するに至っただけであった。そのような中で語られた言葉が印象的だった。
‥‥大庫院前の回廊で監院寮に仕える若い雲水とすれ違ったときのことです。静々と菩提座のほうへ歩いてゆく彼がお盆に載せて捧げ持っていたのは、一皿の真っ赤なイチゴでありました。薄昏い雪の降り積もった伽藍に、つやつやと弾けんばかりのイチゴの赤。誰が食うのか知らないが、ばかばかしいほど活き活きした赤。一瞬、全身の血が逆流するかと思った赤でありました。何か桶の底が抜けるようにして、出てゆこうと思いました。私は生き直さなければならなかったのです 上巻(p244)
下巻ラストは、榮が保田英世の自殺の関係者や、福澤王国の肉親に対し次々と辛辣に説破していくもので、正に圧巻だった。