『ボタニカル・ライフ 植物生活』
『ボタニカル・ライフ 植物生活』 いとうせいこう (新潮文庫)
著者は、都会暮らしで庭を持たず、ベランダで花を育てている人を「ベランダー」と命名。
何を隠そう彼こそガーデナーとは一線を隔す、誇り高き「ベランダー」なのだ。
本書はHP上に書き綴られた彼の真剣且ついい加減なボタニカル・ライフを収録したものだ。
いわゆる「花・ハーブ・園芸」といった内容のボタニカル・ライフは、お上品でおしゃれなナチュラルテイスト満載の文章が多いが、本書はそれとはやや趣が異なる。
一人称は「俺」、鉢植の花は「やつ」だの「こいつ」だのと呼んではばからない。
とは言え、言葉の端々に植物に対する真心や、植物の神秘に頭を垂れるところなどあって、それがグッときたりもするが。
ベランダーの宿命として、日々狭い場所にどういう布陣で臨むかという事が大問題となる。
これは我が身に置き換えても切実だ。横歩きして通った後で、バシャンと鉢が落ちた事後処理ほど頭に来ることはない。
思いのほか生き延びてしまって、捨てるに捨てられないニチニチ草の話などは切実だ‥‥
そして、三年目。俺は自分をだましてわざと水やりを控えた。捨てられないのなら死ぬのを待とうという恐ろしい計略である。俺はベランダ上の家康そのものであった。優柔不断な植物好きなら、この俺の所業を責めることは出来ないだろう。誰でも一度はそういう悪魔的なことをしたことがあるはずである。
(中略)
そのことを知ってか知らずか、ニチニチ草は思い出したように細い首を伸ばし、淡い色の花など咲かせる。憎らしい。だが、捨てられない。ついつい水などやってしまい、後で後悔したりする。時には根腐れを狙ってやたらと水をやってみたりもした。ニチニチ草は一瞬喜び、無理な量の水を吸い込んでから俺の戦略に気づいたようであった。にらみ合いが続いた。ニチニチ草の勝ちだった。やつは腐ることもなく、またスクスクと茎を伸ばし始めたのである。
こうして、家康とニチニチ草との心理戦は長く続き、今年ようやく決着がついた。枯れてくれたのだ。俺は複雑な心もちで、茶色くなったニチニチ草を燃えるゴミの袋に入れたものである。 (p201~202)
ニチニチ草では枯れない事を嘆いていたが、著者は概してよく植物を枯らしては新しい鉢を買っているようにも見受けられる。
この人、拘るようで拘っていないな~という感じもアバウトでいいではないか。
花屋や植木市で、心惹かれる鉢植えを見つけると、置く場所もないのについつい買ってしまう‥‥これは実によく分かる心境だ。
著者は大きな花が好きだという。しかも花だけ大きいのは駄目で、荒々しいくらい強い葉や茎との取り合わせが特にお好み。で、アマリリスが最優秀鉢植賞受賞なのだそうだ。
私もどちらかというと楚々としたスミレより、豪華なボタンの方が好きだ。あまりに可憐で健気な花を見ると、こちらの人間性に恥ずかしさを感じてしまう。
その点ボタンは確信犯的な美しさで誘惑してくるから気が楽だ。こっちも「おぬしもワルよの~」と安心して耽溺できるというものだ。
話を本にもどすと、著者が育てているのは、植物ばかりでもない。
水草が欲しかっただけなのに金魚やメダカを計らずも飼うことになったり、ヤゴもいたり。
その小さな命の話もなかなか笑えて、ちょっと哀しかった。