『世界は分けてもわからない』
『世界は分けてもわからない』 福岡伸一 (講談社現代新書)
部分というのは本来存在し得ない境界線を勝手に作り、切り取っているにすぎない。部分は部分という名の幻想である‥‥。
著者は科学的知識と豊かな感性で、部分と全体、連続と不連続が孕む問題を提示し、解き明かす。
各章はそれぞれ異なった切り口の話だが、それらは意外なところで関係し、緩やかに形を作っていく。この本自体が、部分と全体、連続と不連続の関係を表しているようだった。
ある章で語られるのは、二つの絵の話だ。
ヴィットーレ・カルパッチョ《コルティジャーネ》
イタリアのコッレール美術館にあるのヴィットーレ・カルパッチョ《コルティジャーネ(高級娼婦)》は、どこか陰鬱で退廃的な雰囲気の漂う絵で、この女性たちは何者なのか(娼婦なのか名家の夫人なのか)視線の先にあるものは何なのか、人々の想像力をかき立ててきた絵だ。
一方、石油王ポール・ゲティの死後建設された世界一ゴージャスな美術館、アメリカのゲティ美術館。
ヴィットーレ・カルパッチョ《ラグーンのハンティング》
あるとき、キュレターたちは同じ作者の《ラグーンのハンティング》の画面下のパネルにのこぎりで挽いたような断面を発見し、遠く離れたところにある《コルティジャーネ》を連想する。
検証の結果、一続きの縦長の絵であることが分かった。全体だと思っていたものが、部分であった。
さらに各々の絵には蝶番の跡も見つかり、この縦長の絵は屏風のような折り戸か家具の扉の右半分で、蝶番でつながれた左半分が存在したはずだという。
拡大された絵は元の世界のごく一部であり、一部の光しか届いていない。ほの暗い。その暗さの中に名もなき構造物がたゆたっている。そして、今見ている視野の一歩外の世界は、視野内部の世界と均一に連続している保証はどこにもないのである。 (p62)
別の章では“コンビニのサンドイッチはなぜ長持ちするか”から始まる話。
食品添加物のヒトへの影響を、ヒトの細胞をだけを取り出しておこなったのでは、それがどんなに精密を極めても、全体的なヒトへの影響は計り知れないのという。
なぜかというと、ヒトの全身の細胞をすべて数えるとおよそ60兆個だが、ヒト一人の消化管内に巣くっている腸内細菌の数はなんと120兆~180兆個。自分自身の何倍もの生命と共存していることになる。消化管を微視的に見ると、どこからが自分の身体でどこからが微生物なのか判然としない。実に曖昧なものなのだそうだ。
だから、全体から切り離された形でヒトの細胞だけをとりだしても、それが腸内細菌にどういう働きかけをして、その結果、腸内環境がどう変化するかはわからないのだ。
世界は分けないことにはわからない。しかし分けてもほんとうにわかったことにはならない。パワーズ・オブ・テンの彼方で、ミクロな解像度を保つことは意味がない。パワーズ・オブ・テンの此岸で、マクロな鳥瞰を行うことも不可能である。つまり、私たちは世界の全体を一挙に見ることはできない。しかし大切なのはそのことに自省的であるということである。なぜなら、おそらくあてどなき解像と鳥瞰のその繰り返しが、世界に対するということだから。
滑らかに見えるものは、実は毛羽立っている。毛羽立って見えるものは、実は限りなく滑らかなのだ。
そのリアルのありようを知るために、私たちは勉強しなければならない。 (p163~164)
後半は若き天才科学者が引き起こしたスキャンダルの一部始終。スリリングに語られ、まるで小説を読んでいるようだった。