『グロテスク』
そろそろ桐野ワールドも終わりにしようかと思っていたが、また2冊読んでしまった。
長編の『グロテスク』と短編の『ジオラマ』、長編の方が断然面白かった。
『グロテスク』 桐野夏生 (文芸春秋)
グロテスクと聞いてまず思い浮かべたのは、語源のグロテスク模様だった。
つる性の植物と動物や怪物が渾然一体となった装飾模様で、有機的な生命感と同時に醜悪さや不気味さ、猥雑感が特徴になっているものだ。
流麗な植物の先に、時として本人すら予期しない醜悪な怪物が出現する。グロテスク模様は人の心なのかもしれない。
本書は「東電OL殺人事件」を題材としたもので、被害者の女性が昼は一流企業のOLとして働き、夜は娼婦として渋谷の街に立っていたということで、注目された事件だ。
この事件に関しては佐野眞一のルポルタージュ形式の『東電OL殺人事件』を読んだが、客観的な事実関係はよく分かったが、今ひとつ被害者女性の心の闇が解明されていないように感じた。
それは、一番近い存在であった彼女の家族の思いや言葉が無かった(と記憶するが)ことも、少なからず影響していたようにも思った。
本書では小説という形をとったことで、核心というか彼女が追い詰められ人格崩壊していく過程が、ある意味リアルに感じられた。
主人公の和恵の生い立ちを描写するために、小説では高校の同級生とその妹を配している。この姉妹は、姉は地味で目立たない存在、妹は怪物的な美貌の持ち主という設定で、姉(わたし)が語り部となって小説を進めていく。
‥‥和恵には乱暴で大雑把なところがありました。ミツルのように巧緻でもなく、わたしのように冷酷でもない。何かが根本的に弱かったのですよ。何かとは何だというお尋ねですね。答えは悪魔の不在です。和恵には、悪魔など棲んでいなかったのだと思いますよ。 (p79)
圧巻は和恵の「売春日記」で、彼女の崩壊過程が克明に描かれている。
彼女は拒食症を患っていて、精神的に非常に蝕まれている。その病気こそが彼女の行動をより過激に、悲劇へと導いていったのだと思う。
その一方で、どん底まで落ちていくことに一種の達成感のようなものを感じていたのではないか、とも思う。それは何事にも努力して上を目指してきた彼女の律儀さの現れのようにも思え、限りなく切ないものだが。
彼女は確かな手ごたえさえあれば、それがどんなものでもよかったのかもしれない。自分を受け止めてくれる人間が夜の街にしかいなければ、そこに求めざるを得なかったのかもしれない。
地獄に孤独でいるよりは、誰かといたい、そんなぎりぎりの淋しさの中で生きていたのかと思うと、痛ましいとしか言いようがなかった。
悪意に満ちていて、後味が悪いというような感想が多い小説だが、私はそうは思わなかった。
本当のグロテスクは現実の方で、小説は小説だから読んで終わりだ。