『私の男』
『私の男』 桜庭一樹 (文芸春秋)
花は9歳のとき震災で孤児になり、遠縁だという25歳の腐野淳悟に引き取られて、親子になった。
それからずっと二人だけで生きてきた。
そして今24歳になった花は、婚約者と父親と三人で食事をするレストランに向かう途中、にわか雨に降られ雨宿りをしているのだった‥‥。
私の男は、ぬすんだ傘をゆっくりと広げながら、こちらに歩いてきた。日暮よりすこしはやく夜が降りてきた、午後六時過ぎの銀座、並木通り。彼のふるびた革靴が、アスファルトを輝かせる水たまりを踏み荒らし、ためらいなく濡れながら近づいてくる。店先のウインドゥにくっついて雨宿りをしていたわたしに、ぬすんだ傘を差しだした。その流れるような動きは、傘盗人なのに、落ちぶれた貴族のようにどこか優雅だった。これはいっそ美しい、と言い切ってもよい姿のようにわたしは思った。
「けっこん、おめでとう。花」 (p6)
花は父親を淳悟と呼び、お父さんと呼び、「私の男」と言う。
「‥‥私のおとうさんは、最低なの」
「最低だけど、最高、なの」とつぶやく。
そこに込められた万感の思いは、親子の過去を遡って読み継いでいくほどに明らかになってくる。
私には淳悟の愛は最初から最後まで、父親としての愛ではないように思えた。
彼の言葉の中で、花を「自分のもの」というところがあり、とても気になった。子供はけして親のものではない。子供を親の人生に同化させてしまってはいけない。
淳悟と花には親子としての距離がないように思った。親子には親子の距離があると思う。
しかし、彼の異常性は(彼の知り合いの老人の言葉を借りれば)「欠損家族」によるものだとしたら、彼も被害者なのかもしれない。彼は欠損を埋めるために花が必要だったのだろう。
一方の花も、ずっと自分だけが家族の中の異分子、除け者であるのを自覚しながら生きてきた。余分だった花が、淳悟の黒く開いた空洞に、すっぽりと嵌る‥‥それは花にとっての初めての安らかな場所だったのだろう。
花の本当の苦悩は、夫と過ごすこれからなのかもしれない。
淳悟が最後にとった行動は、花への罪の償いと彼なりの愛情の全てだと思う。
登場人物の心理描写が秀逸で読み応え十分。以前読んだ『赤朽葉家の伝説』は祖母、母、私と女三代を描いていたが、私には『私の男』の父親と娘の15年の方がずっと濃密な血を感じさせた。それがどういう形であろうとも。
とは言え、小説が始まって早々、腐野(くさりの)と言う苗字には面を食らって、正直、この小説ハズレかな~と思った。
イヤ、とんでもない。一気に読める小説だった。もとより好みがはっきり分かれるところだが。