又兵衛と「舟木家蔵 洛中洛外図屏風」の決着
『岩佐又兵衛 浮世絵をつくった男の謎』 辻惟雄 (文春新書)
今では「巨匠」称えられている若冲、蕭白、芦雪だが、40年近く前に出された同著者による『奇想の系譜』では「江戸のアバンギャルド」と位置づけられていた。
岩佐又兵衛(1578~1650)もアバンギャルドの1人として紹介されていたが、どういうわけか彼らほどメジャーになっていない。
しかし、辻氏は岩佐又兵衛こそ自身の終生のテーマであると述べ、本書が「又兵衛論の総決算」であるとしている。
新書という読みやすさに加え、オールカラーの図版が多数収録されているのも読者には嬉しい限りだ。
岩佐又兵衛と聞いて、まず思い出すのが「山中常盤(やまなかときわ)物語絵巻」で、内容は室町時代末の牛若伝説に基づいた御伽草子。
牛若の母・常盤は牛若を訪ねて旅に出るが、山中の宿で盗賊に襲われ、身包み剥がされた上に惨殺される。牛若が奇縁により同じ宿に泊まると、夢枕に常盤の亡霊が現れる。宿の老夫妻からも事情を聞き、復讐を決意した牛若は一計を案じて盗賊をおびき寄せ、常盤のあだを討つというもの。
盗賊に殺される常盤 《山中常盤物語絵巻》部分 MOA美術館蔵
瀕死の常盤を宿の老夫婦が介抱する場面は、常盤の白い胸元に鮮血が飛び散り、白い顔は苦痛に歪みながらも美しさを残していて、いっそう凄絶な感じだ。(表紙の絵)
牛若が盗賊を切り殺す場面はさらに凄惨で、盗賊を真っ向唐竹割り、車斬りと断面も生々しく描かれていて、首が飛び、手足や胴がごろんごろんと転がっている。残酷さを通り越してアニメチックですらある。
盗賊を退治した後は、むしろにバラバラになった死体を押し込め、夜の淵に沈める。
牛若の大活躍 《山中常盤物語絵巻》部分 MOA美術館蔵
又兵衛の作品にはこういう残酷な場面を描いたものいくつかあるが、やはりこれは、又兵衛の生い立ちによるところが大きいのではと考えてしまう。
彼の父は伊丹の有岡城主、荒木村重。織田信長に仕えた戦国大名だ。しかし村重は後に信長に叛旗をひるがえす。
信長により有岡城は攻め落とされるが、寸前で村重は脱出し、子・村次のいる花隈城に逃げ込む。信長は村重が降伏すれば一族郎党を助けると約束したが、村重は従わなかった。
結果、まず郎党男女500人が建物に閉じ込められた上に焼き殺され、ついで荒木一族30人あまりが京都の六条河原で処刑された。このとき又兵衛の母親とされる女性も処刑されたとみられている。
まだ2歳だった又兵衛は、からくも乳母の手で城から連れ出され、本願寺へ預けられ一命を取り留めた。
一方、村重と村次は一族を処刑された後も、それぞれ生き延びたという。
『信長公記』には“歴々の者どもの、妻子兄弟を捨て、我が身一人宛(ずつ)助かるの由、前代未聞の仕立なり”と書かれているそうだ。
又兵衛は成長した後、自分がどういう生まれで、どういう経緯で母親が処刑されたかを聞き及んでいたに違いない。
幼い頃からずっと母親の最期を想像し続け、見なかったがゆえに、いっそうそれは強いものになったのではないかと思う。
まだ、この絵巻を実際に見たことがないけれど、積もりに積もった情念が形となった、物凄いエネルギーが凝縮されている絵巻なのだろうと想像する。是非一度見てみたい作品だ。
さて、本書で衝撃的なことと言ったら、これを挙げないわけにはいかないだろう。
それは《舟木家蔵 洛中洛外図屏風》を辻氏が岩佐又兵衛の作と認めたことだ。素人の私には研究者間の長年の論争は全く分からないが、多くの専門家が舟木屏風を又兵衛作とするにも拘らず、辻氏は様々な専門的観点からそれに否定的な立場をとり続けていたそうだ。
しかし、近年再考した結果“「舟木屏風」は又兵衛だ!”と納得できたとしている。
もう少し早く気づいていたら、と悔やまれる。おかしいと思いながら、私に気兼ねして、あるいは影響されて、はっきり物が言えなかった研究者がいたとすれば申し訳なかった。藤懸教授をとやかくいう資格は私にはない。心からお詫び申し上げます。
でも本当は目の前のもやもやが晴れた気分だ。又兵衛の京都時代の画期的作品が確認できたのである。又兵衛が<浮世又兵衛>と呼ばれたいわれも、これで十分納得できる。「舟木屏風」ができた年が<浮世絵元年>にあたるといってもよい。 (p229)
う~ん、こういう新書でとてつもなく偉い先生がお詫びの言葉を述べるのを初めて読んだ。アッケラカンというか何というか。清清しいような驚きだった。
私としては一番好きな洛中洛外図が、又兵衛作とのお墨付きを得て、こんなに嬉しいことはない。
去年東博で初めて実物を見たが、想像以上の面白さだった。
一言で言えば、俗っぽいのだ。浮世のあれやこれや、老若男女の悲喜交々が満載なのだ。
下記の東博の画像は各部分がよく見ることが出来てとっても楽しい! 欲を言えば、右隻左隻の何扇と場所を書いてもらえると便利なのだけれど‥。
「洛中風俗図屏風(舟木本)」
ここにも「山中常盤」が。右下に「山中ときはあやつり」とあり、人形浄瑠璃を見物する人が描かれている。
又兵衛の数奇な運命は、平穏に京都に住まうことを許さなかった。舟木屏風を仕上げて後か、福井へと招かれ移り住む。
福井は正に、菊池寛の小説『忠直卿行状記』でもお馴染みのエキセントリックな主君、松平忠直の治世だった。
お抱え絵師にはならなかったものの忠直の屈折した境遇と、大名の子として生まれながら絵師として生きる又兵衛と、どこか気脈が通じていたと想像するに難くない。
忠直、忠昌と二代にわたって20年以上福井で作品を描き、幸か不幸か60歳で絵を所望され妻子を残し江戸へ向った。そして一人江戸で73歳の生涯を終えたそうだ。
《官女観菊図》山種美術館蔵 忠直時代の私のお気に入り。
http://www.yamatane-museum.or.jp/collection/01.htm
《豊国祭礼図屏風》徳川美術館蔵 絢爛たる混乱とでも‥
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=18957&imageNum=3#