未来へ託す
『パンダの死体はよみがえる』 遠藤秀紀 (ちくま新書)
「もしもし、ゾウが死にました。受領は可能ですか?」
そんな電話とともに、遺体の歴史は静かにスタートを切る。この問いに平常心で答えられるようになったのは、遺体の研究を数年続けてからのことだ。考えようによってはこれほど単純な問答はないだろう。「イエス」なら私が遺体を手に入れ、「ノー」なら誰かが遺体を焼き捨てるということになる。(p20~21)
動物の遺体は基本的には生ゴミと同じ扱いだそうだ。しかし著者にとって、それは「科学と謎がしのぎを削る戦場」なのだという。
いつものように動物の遺体を人類の知の宝庫として残す、遺体科学を提唱している。何冊か読んでいるので、このことはだいぶお馴染みになってきた。
本書では特に、世界で初めてパンダの掌の仕組みを明らかにして、如何にして不器用なクマが器用に竹を握ることができるのかを示しているのが興味深かった。
パンダには第六の指「偽の親指」といわれるものがあり、それが人の親指のように機能すると思われていたが、実は違っていたというのだ。
それこそがクマから竹を主食にするジャイアントパンダに進化した鍵になるというわけで、大変な発見だ。
また、レッサーパンダも同様にものを握ることができるが、解剖してみるとその仕組みはジャイアントパンダとは全然違っていることが明らかになった。
どの種も独自の進化をとげた貴重な存在なんだと、あらためて思い知らされた感じだ。
それにしても読むにつれ、欧米に比べて日本の博物館のお寒い現状、研究費の少なさは驚くばかりだった。
著者はところどころで「貧乏学者にとっては‥‥」「ない袖は振れない」と悔しさと諦めをこめて言っている。
ゾウの解剖に際しては、せめてどこの小学校にでもあるようなプールが一つ貰えたら、ゾウを丸ごとホルマリン漬けにすることが可能なのにと嘆き、それだけで人々の動物学への認識を変えることが出来るのに、と言う。
パンダの掌の研究では、人間が使う旧式のCTスキャンとMRIが使われたそうだが、レッサーパンダの時には対象が小さすぎて、ヒト用のものでは使えなかったそうだ。
「何十億というお金が展示室という器に費やされるが、遺体の研究は年間数十万の予算と研究者の頑張りで進めているのが実態」だという。
正直、第一人者である著者でさえそうなのかと驚くやら、何やらで‥‥。
アメリカは問題も多い国のように思うが、遺体科学の充実した環境は見習うべきだなぁと思う。
日本の国立博物館の収蔵品は約4万点、スミソニアン自然史博物館は整理の終わったものだけでも65万点あるそうだ。これだけを見ても、お金も人も場所も桁違いに贅沢なことが分かる。
また、ヨーロッパの博物館は規模は小さくても、文化の保存と継承に最大の価値を見出していて、地味だが確固としたポリシーが貫かれている。
何百年前の標本を手にして、今だから分かることがあるに違いない。
動物の全体像が分かる標本や身体の仕組みが分かる骨格標本は、遺伝子レベルの重大さとは異なる、もっと造形的な目の楽しみや、想像力を刺激する愉しみがあると思う。
‥‥など偉そうなこと言っている私だが、実際、自分が目にするのは美しい骨や、剥製となった姿。
そうなる過程、解剖の現場では異臭がこもり、まごまごしていると蛆の山となるという。パンダの解剖では臭い臭いと逃げ出す解剖学者もいたそうだ。ゾウの皮膚は鋼のようで、重量級の動物の解体は正に肉体労働、別の本だったかもしれないが「クレーンの免許を取っておけばよかった」と言う言葉もうなずけた。
著者によると、残念ながら現在の日本の博物館、大学さえも直ぐにお金にならない骨格標本や剥製の保存、遺体科学にはあまり理解を示してはいないという。モノを残すのはお金も場所も専門家も必要だ。何より残す意義を沢山の人が認める土壌が必要なのだろう。
淡々と残していくことは、単純そうで実はとても難しいことなのだと思った。