この画集は宝物!
『高島野十郎画集 作品と遺稿』 川崎浹/監修 (求龍堂)
新聞の書評欄で「高島野十郎画集」の文字を見つけ、何が何でも見たくなり即購入。
これほど感動した画集は久しぶりだった。
目次は
1 月/太陽
2 一九四五~一九七五
3 蝋燭
4 ノート
5 一九一四~一九四三
6 解説・年譜 *画集では数字はローマ数字
全画業の中から主要作品の油彩129点(全てカラー)とデッサン数点(白黒)が収録されている。
野十郎作品の中でも特徴的な、《月》と《蝋燭》を別枠に、初期の作品へ遡っていくかたちで見ていく。
ノートは、野十郎が折りにふれ画業や人生についての事、短歌などを書き留めておいたもので、全文掲載されている。
ノートに書かれた文言はけして多くは無いが、作品理解はもとより高島野十郎という人間を理解していくバイブルともいえるものだ。
監修の川崎浹氏は、若い頃まだ高島野十郎という画家を知らないうちに、偶然に三回も彼と出会うという経験をしている。
野十郎をして「この出遭いはもう運命だよ」と言わしめ、以来21年間、野十郎が亡くなるまで深い交流が続いたということだ。
画集を見ると、どの作品も精魂込めて描き込まれていて、とても安易に感想を纏めることなどできないが‥。
野十郎の描く静物は、惹きこむ力があって心底見入ってしまう。
りんごやからすうりや割れた皿さえも、徹底した写実で描かれているけれど、形態の説明が目的ではない。
写実が追求したものは対象の存在そのものだと思う。
野十郎が描くと、一個のりんごが神秘的な存在にまで見えてくるが、それはあらゆるものの存在が神秘的だということかもしれない。
《月》は冷たい藍色の夜空に、小さな月が一つ描かれただけの作品だ。
これだけしか描かれていない画面に、恐ろしいほどの密度がある。野十郎が虚空に見たものの濃さなのだろうか。
孤独な悲しみと、その上の覚悟がひしひしと伝わってくる。自画像にも思える。
タイトルが《無題》という抽象画のような太陽がある。
画面は一筆一筆描かれた光の粒、あるいは空気の粒のようなもので埋め尽くされている。
たぶん、具象とか抽象とかそういうことは、野十郎にとって意味の無いことなのだろう。
野十郎は、生きていくことと絵を描くことが同じ意味をもっていたと思う。
真実の追究(宗教的なものかもしれないが)をして、ひたすらにキャンバスの上に絵の具を置いた結果が、彼の作品なのかもしれない。
細かな粒が流れるこの絵を見て、フッと、禾目天目や油滴天目の緻密で宇宙的な地肌を連想した。
風景画も独特な見方があって、何の変哲も無いような景色を描いたものも多い。
《古池》や《春の海》はこれと言って特徴のあるものや、中心となるものが無いような絵だが、画面にはその場の空気が充満していて、圧倒される。
見えるものを徹底的に描いて、見えない空気を私たちにぶつけてくるのだ。
他にも色々考えさせられるような作品や、個々の構図や描かれたものについて謎だと感じることがある。
しばらくは興奮しながら、ああだこうだ思いながら見ているだろう。
素晴らしい作品は、見る側の変化に応じて新しい発見や感動をあたえてくれるものだ。
この画集とはこれから長い付き合いになりそうだ。
「求龍堂」