一目小僧を考える
『文豪怪談傑作選 柳田國男集 幽冥談』 東雅夫/編 (ちくま文庫)
カバーの絵が面白くて、つい買ってしまうシリーズ。
鴎外、鏡花と読んで、今回は柳田國男。
実作と研究から怪談文学に関する著作、25編を収録したアンソロジーだ。
「遠野物語」をはじめ「山人の研究」など、特に「一目小僧」が面白かった。
一目小僧は地方で色々と違いがあるが、日本全国にいるのだそうだ。
威力を発揮している場が山奥ということで、一目小僧を「山の神」と結び付けている。
いずれの民族を問わず、古い信仰が新しい信仰に圧迫せられて敗退する節には、その神はみな零落して妖怪となるのである。妖怪はいわば公認せられざる神である (p247)
そもそも、一目とはどういうことなのだろう?
著者は、一目は片目ということではないかという。片目の神というのは存外多いそうだ。
それも皆同じように、怪我をして一目になるというのが多い。つまずいたり転んだりして、何かの植物に目を差して「御眼の怪我」ということになる。
そうすると、その植物を植えなかったり、食べなかったりするといったことも起こってくる。
しかし、怪我といっても神がそうそう全国あちこちで怪我をするというのも腑に落ちないことで、怪我は神が在世中の出来事であるという。(人が神なるのが前提)
祭りに際して神の名代として定められた人物、その人に起こった出来事だというのだ。
昔、選ばれて神の名代となったものが、そのために特別に片目を傷つけられたのではないかとしている。
一目小僧は多くの「おばけ」と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画にかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。‥‥(p286)
さらにこれに続いて、「反対御勝手次第の仮定説」と牽制しつつ一目小僧の断案を下していく。
一方、怪我をした眼を洗った池や川の魚が、皆片目だというような話もあって、そちらも興味深かった。
とにかく人の作った習慣、俗言、伝説であれば、人間的に意味がなければならぬ、今の人の目に無意味と見えるだけ、それだけ深いものが潜んでいるので、いわば我々は得べき知識をまだ得ておらぬのである。
(中略)
しかもそれがエチオピヤ人でもなければパタゴニヤ人でもなく、我々が袖を捉えて縋(すが)りつきたいほど懐かしく思う、亡親(なきおや)の親の親の親の親たちの生活の痕ではないか。 (p288~289)
一目小僧というと、何となく目頭も目尻もないような目玉のオヤジがくっついているようなイメージしかなかったが、こんなにも色々なものが関係し、重なりあって出来ていたとは驚いた。
どんな小さなお化けでも、今に残っているということは、大そうな事なのだとつくづく思う。
それにしても「袖を捉えて縋りつきたいほど懐かしく思う」とは、何というか、時代を感じるフレーズだなぁ。
そうそう「かはたれ時」という文章の中に、また一つ、知らなかった言葉が出てきた。
黄昏を雀色時(すずめいろどき)というのだそうだ。どういうことかというと、
雀の羽がどんな色をしているかなどは、知らぬ者もないようなものの、さてそれを言葉に表そうとすると、だんだんにぼんやりとして来る。これがちょうどまた夕方の心持であった。すなわち夕方が雀の色をしてるゆえに、そう言ったのではないと思われる。 (p307)
雀をイメージしてみると、茶色と黒と灰色(白が汚れたのか知らないが)が思い出される。
胸は灰色か? 羽は茶? 嘴とか羽にところどころ黒かな?
色は思い出すがどこがどんな色だったかはっきりしない感じで、なるほど、だんだん分からなくなってくるなぁ。
でも、夕方というとカラスの印象が強いので(童謡の影響か)、雀は意外な感じだった。
雀は朝にチュンチュンといったイメージだ。
同じ薄明かりで、明け方も雀色時と言っていたのだろうか?
まあ、白と黒で燕尾服をビシッときめたツバメは、全く関係なさそうだけど。