場の共有、参加する絵画

共視論 (講談社選書メチエ)

『共視論 母子像の心理学』 北山修/編 (講談社選書メチエ) 

「共視」とは対象を共に眺めること。一見どこにでもありそうなこの行為が、こんなにも深い意味を持つものだとは思いもよらなかった。

精神分析医である北山氏は、浮世絵に「共視する母子像」が多く描かれていることに気づき、そこに日本人である私たちの特徴が見出せるのではないかと提言する。

本書では、北山氏をはじめ他7名の専門家が「共視」をを取り上げ、それぞれの切り口で「共視」を掘り下げている。

例えば、北山氏の「共視母子像からの問いかけ」にある歌麿の「風流七小町 雨乞」という母子像(表紙に使われている絵と同じような構図)

母親は幼子を抱きながら傘をさしている。母親はあの歌麿美人。抱かれている幼子は背中を向けているので顔は見えない。共に傘に開いた穴を眺めている図だ。

この二人の間には、共視対象を媒介に身体的交流や情緒的交流など、様々な交流が見られる。

北山氏は、特に後姿の幼子に鑑賞者を投影することで、自分もお母さんと一緒に眺めることができるのだという。

以下いくつかの共視しているもの。

《藤原元真(夏は来ぬ)》春信

《虫籠をもつ母と子》春信

《蛍狩り》歌麿

浮世絵の中の共視対象には、蛍、花火、しゃぼん玉と、「面白い」がやがて浮んでは消える「はかない」ものが多い。共有していた対象も、やがて消えていくものであり、二人のつながりの「うつろいやすさ」がそこに示されているようである。 (p23)

著者は、日本人は移り行くものを共に眺めることが心から好きであり、同時に悲しみも噛みしめられるのだろうという。

なるほど、共に桜を眺め、紅葉を眺め、満ち欠けする月を眺める。一人ではなく、共に眺める。そこにつながりや絆をしっかりと、或いはそこはかとなく感じる意味があるのだろう。

共視母子像は、そういう意味で原風景と言えるが、著者は実はそうでありたい「自惚れ鏡」なのだとしている。

限りなく美しい優しい人との、親密な心休まる、楽しいひととき。

人は失われたその幸せを、繰り返し繰り返し、誰かに求め続けるのだろう。

他に、田中優子氏の「場の江戸文化」が大変面白かった。

線的遠近法をつかった絵画を「浮絵」といって、芝居絵などが多く描かれていた。

「浮絵」

http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/dis0710.html

この芝居絵は、劇場全体を描いたもので、役者だけを描いたものではない。むしろ観客が手前に大きく、生き生き詳しく描かれていることが多い。

田中氏はそれを、絵の鑑賞者をその場に引き込むと同時に、芝居を見る観客と鑑賞者が共視し、体験を共有するように仕組んでいるとしている。

また、広重の「名所江戸百景」を取り上げ、こちらも鑑賞者とまなざしを共有しようとするのだという。

《日本橋江戸橋》(「名所江戸百景」)

《羽田の渡し 弁天の杜》(「名所江戸百景」)

以前から「名所江戸百景」は大好きなシリーズで、斬新な構図がとても面白く、新鮮なものに感じていた。

まなざしの共有と言うキーワードであらためて作品を見ると、斬新な構図であればあるほど、そういう角度で自分が眺めたという驚きや喜びも大きいのだと分かる。

客観的に素晴らしい景色を眺めるというのではなく、鑑賞者が、描かれたその場その瞬間に居たと言う切り口の構図だから、当時も今も色あせずに見ることができるのだろう。

と同時に、私たちに共視したと思わせる絵師の画面作りの妙に、あらためて感じ入った。

この何重にもなっている共視の構造こそが、母子の共視を中心に、日本の文化が育ててきたものであった。そしてその共視が作り出す「場」が、日本文化にとって大きな意味をもっていると、私は考えている。 (p70)

ところで、話は最初に戻るが、北山氏が取り上げた「風流七小町 雨乞」幼子を抱いて傘をさして入る母親の絵について。

本文で「後姿の幼子に自分を投影できる」という件を読んだ時、私は「自分が幼子になって」という見方をしなかったので、著者が男性であるからごく自然にそういう見方をするのだろうと思って、とても興味深かった。

では何を想像したかというと、喜んでいる子供の顔を想像した。喜んでいる顔を見ている母親の立場だ。

このあたりは、見るものの性別や年齢、子供の有無などによっても違うのだろう。

こういった母子像も美人画という枠内の一つのバリエーションであると思うので、美しく優しい母というのは、男性にとっての永遠の憧れなのかもしれない。

「共視」の問題とは違うが、抱かれている幼子をはじめ、赤ん坊などは男の子が多いように感じるが、どうだろう?

絵師に男性が多かったのだろうか、美人画を見る対象として男性が多かったのだろうか? 何となく気になる。

今後、浮世絵を見るときは、留意して見てみようかな、と思った。