師弟をこえて
『川端康成 三島由紀夫 往復書簡』 川端康成 三島由紀夫 (新潮社)
あの川端康成と三島由紀夫の往復書簡が、面白くないわけがなく、最初の手紙を読むなり惹きこまれた。
両氏の間で行き交う言葉を、小説のように想像をめぐらして読むのは、一寸申し訳ないような、それでいてこれ以上の楽しみはないような、そんな心持だった。
手紙は、川端が46歳、三島が20歳の昭和20年から始まり、三島が自決した昭和45年まで続く。
両氏の関係は平坦ではなく、互いの立場の変化とともに微妙に変化しているが、生涯にわたりお互いが特別な存在であり、いい意味で油断のならない相手であったように思った。
特に三島の手紙は、師であり友人である川端に対する限りない尊敬と憧れに満ち、他には見られないような真情の吐露があって、心を打たれた。
また、相手を喜ばせようとするサービス精神は、基本的に真面目な人、という感じがして微笑ましかった。
三島の礼儀正しさ、几帳面さは終生変わることがない。形式だけの礼儀は虚しいものだが、相手を心から敬愛する故の礼儀は、美しいものだと思う。
印象に残った文面は‥‥
昭和25年3月18日付 三島より川端へ (川端よりヨーロッパ旅行の誘いを受けて)
本日はまた御丁寧なお手紙ありがたうございました。エデインバラへ行つたらどうか、といふ個所を拝見し、ワアーツとよろこんでしまひ、もう一寸読みましたら、百万円要ることがわかり、ガツカリしてしまひました。私の力では、宝クジを買うほかに手がございません。‥‥それともどこかへ頼みやうがございませうか?
(中略)
竹山道雄さんの「希臘にて」をお読みになりましたか? 一生に一度でもよいから、パンテオンを見たうございます。 (p57~58)
昭和31年11月1日付 三島より川端へ
「雪国」「千羽鶴」の外国での御出版をお慶び申上げます、アメリカ人もなかなか(本文では繰り返し記号)バカではありませんから、わかるところはわかると思ひます、却つて欧州人の方が、頭が硬化してゐて、日本文学に対して、柔軟な理解力を欠いてゐるのではないでせうか。
(中略)
それはさうと、中公の評判の「楢山節考」はお読みになりましたか? 一読肌に粟を生ずるイヤな小説で、あれの載った中央公論には、さはるのも気味がわるく、そのうち映画になるさうですから、その上映中は映画館の前を通れますまい、あんなに気持を悪くさせる文学は、一寸反則ではないかと思ひます、 (P93~95)
昭和43年6月25日付 川端より三島へ (三島と中村光夫の対談集を読んでのこと)
中村君の言ふのとちがって私が世を渡るのでなく世が私を渡らせるやうに思ひますがいかがでせうか いづれにしろ好きぢやありません (p178)
昭和44年8月4日付 三島より川端へ
ますますバカなことを言ふとお笑ひでせうが、小生が怖れるのは死ではなくて、死後の家族の名誉です。
(中略)
生きてゐる自分が笑はれるのは平気ですが、死後、子供たちが笑はれるのは耐へられません。それを護って下さるのは川端さんだけだと、今からひたすら便(ママ)りにさせていただいてをります。 (p184)
昭和45年7月6日付 三島より川端へ
時間の一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ、空間的事物には、ほとんど何の興味もなくなりました。この夏は又、一家揃って下田へまゐります。美しい夏であればよいがと思ひます。 (p189)
両氏の心の交流はもとより、当時の世相や文学動向なども読み取れ、とても興味深かった。
作家同士の往復書簡集は海外では少なくないが、日本では希少とのことだ。
何事も先を見越した三島のことだから、このような往復書簡集が編まれることも予期していたのかもしれない、とも思った。