深淵を覗く
『みちのくの人形たち』 深沢七郎 (中央公論社)
「みちのくの人形たち」
モジズリが縁で、「私」は東北のある人の家を訪れた。
その晩、一人の男がやって来て、主からその家の屏風を借りて帰っていった。
村では昔からお産があると、その家の屏風を借りるのだそうだ。
翌日、「私」はお産のあった家で思いがけず、線香のにおいと、妊婦の枕元に屏風が逆さに立てられているのに気がついた。
主にそのことを尋ねると、仏壇の中にある、ご先祖様だという両腕のない仏様を見せてくれた‥‥。
土産物屋に静かに並ぶ人形たち、バスに座る様々な人たちの顔、両腕のない仏様、さらに逆さ屏風の下で消えていった見知らぬものたち、それらが渾然一体となる怖ろしさ。
消されたものと、生かされたもの。紙一重の命は、何と儚いものなのだろう。
「私」の、生きているという実感が、グニャリと崩れ落ちそうな喪失感が迫ってくる。
一人の人間の重みとか、個性とか、ややもすると偏重され過ぎて見えなくなった何かがあるのではないかと、ふと思った。
『みちのくの人形たち』も『楢山節考』と同じように、生きている人間の因習や業の深さを表す「黒」よりも、死者の清浄な「白」を連想させるものがあった。
屏風の山水画は、どこかぼんやりと白っぽい、朦朧とした墨絵ではないだろうか‥‥。
「野の花賛花」より
(ミヤマモジズリ)
http://hanamist.sakura.ne.jp/flower/tansiyo/ran/miyamamoji.html
「秘戯」
40年ぶりに、「私」は息子と二人の知人とともに、一時期過ごした博多へ向かった。
当時「私」は仲間と、ある秘密の儀式めいたことを行っていて、今回も旧交を温めるとともに、それが目的でもあった。
「私」はもっぱら見るだけだったが、仲間は皆、師匠の老人を中心に博多人形を作っていた。
それは一見すると普通の人形だが、実は「博多人形の裏返し」といって、裏返して底から中空になった内側を見ると、そこに男女の顔や性器が形作られている人形だった。
「博多人形の裏返し」は、猥雑感を越えた圧倒的な造形美で、見るものを驚異と陶酔の世界に誘うものだった‥‥。
読んでいて、アッ!、と気がついた。
鈴木清順監督の「陽炎座」という映画がある。「陽炎座」は泉鏡花の複数の作品をもとに構成されていて、好きな作品だ。
何といっても映像が美しく、しっとりと露を含んだような、それでいて鮮やかな鏡花の世界を見事に描き出しているのだ。
ところが一箇所、重要なシーンなのだが映画の中で、何となく質が違うというか、味が違うというか、違和感を覚えたところあった。それが、「博多人形の裏返し」だった。
主人公は裏返しの世界に、自分の運命のようなものを見て惑乱する、といったような筋だったと思うが、セリフも登場する師匠も「秘戯」からのものだった。
どうして鏡花に深沢七郎が入っているのか、私にはその意図が理解できないが‥‥。
あの生々しさと泥臭さは深沢七郎だったのか。あ~、腑に落ちた。
「秘戯」は、性の深淵を覗くことなのだろうか。なかなかにdeepな世界で、私なんぞは想像し得ないが、そこには名状しがたい「夢」が広がっているのかもしれない。
‥‥見たら、人形は全て壊してしまうのが決まり、だそうだ。