陰鬱な鴎外に浸る
『文豪怪談傑作選 森鷗外集 鼠坂』 東雅夫/編 (ちくま文庫)
表題作を含む自作短編9作品と翻訳もの9作品、短歌と関連資料も収録されていて、一味違った鷗外を楽しめる一冊だった。
翻訳ものと自作短編が交互に編まれていて、読み進めると鷗外がいち早く欧米の幻想文学を翻訳し世に送り出すと共に、その魅力を自家薬籠中のものとして、自らの作品を生み出していたのがよく分かる。
全体にいわゆるお化けや幽霊の出てくる「怪談」の怖さはほとんど感じられなかったが、医学的な内容が作者と重なる自作短編『魔睡』・『金毘羅』にある人間の奇妙な心理が印象に残った。
幻想譚によせて鷗外自身が抱える矛盾や葛藤を表したものといった感が強く、「美」を強く意識した鏡花の幻想譚との大きな違いのように感じた。
『鼠坂』は、なんとも後味の悪い、陰鬱な小説だ。
戦時中、満州で儲けた深淵某が、ある晩二人の客を招いて新築祝いする。
その席で主人の深淵が、客の小川が満州で犯した暴行殺人の経緯を、もう一方の客に暴露する。
夜も更け、客はめいめい部屋に泊まる事になった。小川はどっと寝床に倒れこむ‥‥。
「ああ、酒が変に利いた。誰だったか、丸く酔わないで三角に酔うと云ったが、己は三角に酔ったようだ。それに深淵奴(め)があんな話をしやがるものだから、不愉快になってしまった。あいつ奴、妙な客間を拵えやがったなあ。あいつの事だから、賭場でも始めるのじゃあるまいか。畜生。布団は軟かで良いが、厭な寝床だなあ。炕のようだ。そうだ。炕だ。ああ厭だ。」 (p245) [炕(かん)=オンドルのこと]
ほんの十数ページの短編に、人間の残忍性や卑小さが刻み込まれている。
最後に恐怖というよりは寒々とした虚しさを感じた。
不可解な死が一つあったが、世の中は何一つ変わることなく依然として悪が存在し、それを誰も、どうすることもできない‥‥。
フカブチという名前が一層不気味に思え、陰気な暗闇が広がるように思えた。
小日向から音羽へ降りる鼠坂(ねずみざか)と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云う意味で附けた名だそうだ。 (p234)
冒頭文はこう始まるが、鼠坂は実際にある坂で、調べてみたら面白いサイトがあった。
「坂ミシュラン」
http://www.ne.jp/asahi/mim/tdr/saka/saka.htm
小日向台地のところに鼠坂が載っている。
『不思議な鏡』はドッペルゲンガーの話だ。
自分ってものを客観的に見つめることは大事だというけれど、それがホントに出来ちゃビョーキだ。
人は自分の心とどうしても折り合いがつかないとき、逃げ出すしかないのだろうか。
不本意な言動し続けなくてはならないときや、嘘をつくことに慣れてしまったときなど、嘲笑的に外から自分を眺めるというのはよくあることだなぁ、と思う。自己防衛の一つなのだろう。
『百物語』は、川開きに飾磨屋が催す百物語に出かけるという話。
これは当時実際にあったことを下敷きにした作品だそうで、関連資料として新聞の記事なども載っていて興味深かった。
といっても、この『百物語』は何も怪談が語られるわけではなく、誘われて出かけた「僕」の興味は主催した飾磨屋と愛人の芸者・太郎に向けられている。
好い女ではあるが、どこと云って鋭い、際立った線もなく、凄いような処もない。僕は一寸見た時から、この男の傍にこの女のいるのを、只何となく病人に看護婦が附いているように感じたのである。 (p368~p369)
飾磨屋は豪遊から今紀文と呼ばれ、太郎は東京一の芸者と知られていたが、目の当たりにすると、意外にも実に沈鬱な人物だった。
黙って座っている二人を見ていると、もしかして飾磨屋は百物語といって、客が酒食を貪るために来たり、迷信に理性がとざされ、恐いもの見たさにやって来るのを、冷ややかに見ているのではないかと考える‥‥。
短歌で印象に残った2首
・ 掻い撫でば火花散るべき黒髪の縄に我身は縛られてあり
・ 書(ふみ)の上に寸ばかりなる女(おみな)来てわが読みて行く字の上にゐる
結構読むのに時間がかかってしまい、おまけに途中で以前読んだ『阿部一族』とか読みたくなって、本棚を探したりした。
『阿部一族』はある殉死を切欠に一族が転落していく悲劇を描いたものだ。読めば読むほど奥深く、その時々の自分の解釈があり、新たな発見もある。今回は悶々と読んでしまったな。
長くなりそうなので、また今度。