目が渋いという感覚
『文豪怪談傑作選 泉鏡花集 黒壁』 東雅夫/編 (ちくま文庫)
鏡花の魅力は何かといえば、その文章に触れれば即、鏡花の世界に浸れるところだ。
というか、私にとっては「迷いこむ」といった方が正しい。鏡花好きなくせに、その蔦蔓のような文体に翻弄されて、何が何だか分から無くなるのは毎度のことだが。
二度三度読み返してやっと、ああそうかと腑に落ちたり‥‥やっぱり、落ちなかったり。
新文芸読本「泉鏡花」に、露伴と鏡花は双方とも明治・大正・昭和と名声を保ったが、男性的な前者は尊崇され、女性的な後者は愛好された。というようなことを大岡昇平が書いていて、流石に言いえて妙だと感心した。
私も時々、しっとりと露を含んだような鏡花を、無性に読みたくなることがある。
裏表紙の解説によると、本書は文庫未収録の作品から怪異譚を選りすぐったとのこと。表題作を含め11作品収録で、読み応えも十分。
鏡花のお化けは凄艶なものからユニークで可愛いものまで、世にも怖ろしいものから心優しい、哀れなものまで多種多様だが、本書は全て「女怪幻想」大概美人揃いなのは言うまでもないが‥。
お化けが怖くてたまらぬ鏡花だが、実は最も恐れ嫌悪したのは妖怪変化の類ではなく、妄執凄まじき人間なのだと思う。
『黒壁』は、加賀国随一の幽寂界、黒壁というところで、ある男が「丑の時詣」に遭遇する話。
剰(あまつさえ)陰々として、裳(もすそ)は暗く、腰より上の白き婦人が、長(たけ)なる髪を振乱(ふりみだ)して彳(たたず)める、その姿の凄じさに、予は寧ろ幽霊の与易(くみしやす)さを感じてき。(p362)
鏡花のお化けや幽霊は人間以上に純粋で、尊い存在であることが多い。幽霊の存在を信じている鏡花の願望なのだろう。
『霰ふる』『甲乙』では、主人公が幼い頃に初めて出会って以来、人生の節目に何度となく現れる、二人連れの女の幽霊が出て来る。もう存在感さえ漂っているお馴染みさんだ。
神仏や観音力、文字の霊力を素朴ともいえるほど信仰している鏡花にとって、「真実」は現実にある無し関わらない、目に見える見えないに関係のないものなのだろう。
もう一つ、鏡花を語るときに欠かせないのが彼の性癖というか気質だ。
常軌を逸した潔癖症や、食物に対する異常な強迫観念は、作品に見事に昇華され、鋭敏で独特な表現は鏡花ならではの醍醐味となっている。
そういう意味で印象に残ったのが『紫障子』と『尼ヶ紅』何だか胃の辺りがムカムカしてくる作品だ。
特に『尼ヶ紅』が印象に残った。
主人公の大尉は、日露戦争の殺戮で神経衰弱になり、身重の妻と共に寺で静かに日々を過ごしていた。
そんなある日、薬になるからと蝮の生肝を飲む。しかし、どうしてもその不快感がぬぐいきれず苦悶する。
堪り兼ねて、左手(ゆんで)の指を、やがて手首まで突込(つツこ)んで掻廻(かきまわ)すと、頭を殺(そ)いだように耳が寄って、口も鼻も一所(いっしょ)になったが、断(たって)の思いをするばかりで、此処から生肝は摑出(つかみだ)せない。で、目の眩(くら)む中にも、大尉は、筍の嫌いな女が、何かの紛れに一切(ひときれ)食べると、さしこみに悩んで、半年の余(よ)ふらふらして、骨と皮ばかりになった最後に吐出した真蒼(まつさお)な液体の中に噛切れもしないで、その筍が入って出たというのを思出(おもいだ)した。…… (p200)
鏡花は先ず「生もの」を口にしない。刺身はいけない。シャコ、タコ、エビといった見た目の悪いのはもってのほかだ。
ばい菌恐怖症でほうじ茶を煮立て、塩を入れて飲む。熱燗は持てないほど熱く、大根おろしは煮て食べる。春菊は中が空洞で虫が卵を産みつけるから生涯食べなかった。
蝿はばい菌を運ぶから特に恐れて愛用のキセルに紙のキャップを作り、吸う度に取り替えていた。などなど枚挙に暇がない‥
筍の話などは、「もし誤って嫌いなものを食べてしまったらどうしよう」という恐怖の表れのようで面白い。半年消化されない筍なんてそんな、あなた。
大尉は、蝮の生肝、それも腹に子持を持っていた(?)の雌の肝を飲んだことで、身重の妻と同じ、一層耐え難い思いに苛まれ、妄想が渦巻いてくる。
鏡花の作品が精神的(霊的)であると同時に、非常に身体的であるのがとても面白い。
熟(じつ)と瞻(みつ)めていると、目が渋い。渋いと言って、眼玉(めだま)を毛で繋いで頸窩(ぼんのくぼ)へ引緊(ひきし)めるよう、毛穴が、びりびりと戦(おのの)きかかって、耳の底へ、何時(いつ)聞いた声やら、鐘の音(ね)が、ぐわんと響く。この響は、奥の底のドン詰りで、蝮の肝の唸るのが伝わって、びりびりと五体へ来る……そのために目が渋い。 (p233)
目が渋い!これははじめて見た表現。
分かったような分からないような‥どんなんでしょう?
文庫本では新漢字・新仮名づかいになっているが、本来は旧漢字・旧仮名づかい、総ルビというのが鏡花のスタイル。
特にルビのふりかたが面白い。文字(視覚)と読み(聴覚)の相乗効果で、その場にぴったりの特別な意味を持った言葉になっている。
例えば、“否(いんえ)、六尺もあるずら。ふとっこい黄頷蛇(あおだいしょう)でね、…”とか
“ 何処かで一杯般若湯召(きこしめ)したものと見える。”とか。
特に好きなのがこれ
‥‥軒に目白籠(めじろかご)をかけたのがあって、豆伊(つい)、豆伊(つい)、きりきり、と可愛く囀(さえず)る。(p205)
伊の字の先細りが嘴のようで、小さく細い嘴で餌をついばんだり、敏捷に動き回る様子が目に浮かぶ。
鏡花の作品は「青空文庫」や「鏡花花鏡」などで手軽に読めるし、幾つかの作品は旧漢字・旧仮名づかい、総ルビで読むことができる。ありがたいことだ。
ちょっと逸れるが、『文人悪食』は鏡花に限らず、作家の個性的な食べっぷりから文学を論じて、大好きな一冊だ。
「泉鏡花―ホオズキ」として鏡花も堂々エントリーしている。
その『酸漿』(ほおずき)は→で読める。http://www.geocities.co.jp/Bookend/7025/
この作品も『尼が紅』などと同様、心理と身体の連動が衝撃的。
病院帰りの芸者が、電車で乗り合わせた老婆が噛んでいたホオズキが気持ち悪く、電車を降りてしまう。
立ち寄った蕎麦屋でどんぶりの中にホオズキを見かけ、それを飲み込んでしまったと危惧する。
家に帰って吐くのだが、実は喀血で、女は喀血のたびに、「あゝ嬉(うれ)しい、酸漿(ほゝづき)が出(で)るんだねえ。」
今、続いて読んでいるのは、饅頭茶漬けの好きな文豪―森鷗外集。