寝物語の魔力
『ぼっけえ、きょうてえ』 岩井志麻子 (角川書店)
翻訳物を読んだ後で読んだせいか、やっぱり小説は文章の魅力だよな~、これはどうやったって翻訳できないよな~、などと思いつつ書かれている言葉を堪能した。
一人の女郎が客にぽつぽつと岡山弁で語る、いわば寝物語の怪談なのだが、その語り口がすべての魅力を凝縮したように面白くて、凄くて、怖いのだ。
「ぼっけえ、きょうてえ」とは岡山地方の方言で「とても、怖い」の意。
―きょうてえ夢を見る?
…夢ゆうて、何じゃったかのぅ。ああ、寝ようる時に見る、あれ。あれか。
なんと旦那さん、子供みてぇじゃな。いやいや、笑いやしません。夢いうもんは、きょうてえものと決まっとりましょう。
妾(わたし)? 妾は…起きとる時に見るものだけで、充分きょうてえ思いをしてきましたけん、寝たら何も見ん。
(中略)
見えんものの方がきょうてえ、か。いいや、見えるものも充分きょうてえよ。
実はこれは…いや、やめとこう。それを教えたら旦那さんはほんまに寝られんようになる。脅かすわけじゃあないけど、この先ずっとな。 (p7~8)
小説の冒頭部分。既にしてググッと引き付けられて逃れられない。この先読まずにいられない。
読者はこの旦那よろしく布団に包まれて、生暖かい感じを味わいつつ、妾の生い立ちなどがねっとりと語られるのを聞いてゆく。
語られる内容は貧困と凄惨を極めたもので、人間的な悲しみを通り越し、汚辱から聖性すら感じてしまうほどだ。
なんかこんな感じ、そうだバタイユの『眼球譚』だ、と思ったり‥。
表題作以外にも「密告箱」「あまぞわい」「依って件の如し」が収められていてる。
どれも著者の出身の岡山にまつわるもの。
「あまぞわい」が面白かった。この作品も先ずタイトルが、どういう意味か?と思わせる。
“あまぞわい”という昔話を軸に、漁村の閉鎖的な社会での男と女が描かれている。
潮風に肌がじっとりして不快なような、海藻が絡みついて煩いような、そんな人間の業や死、エロスが充満した作品だった。
表紙は甲斐庄楠音の「横櫛」
この人の作品のなかでは普通に「美しい」と感じられるぎりぎりの作品ではなかろうか。
崩れる寸前の、なまめかしく恐ろしい女人像だ。
“寝物語の魔力” に対して2件のコメントがあります。
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>monksiiruさん
ジャケ買いならぬジャケ借りですね。この作品の表紙にこの絵を持ってきた装丁のセンスが凄いですね。
「依って件の如し」も良いですね。私は何かでこれだけは読んだことがありました。
私が知っている「件」は2作品ですが、内田百閒の「件」何となく得体の知れない恐怖といった感じ、小松左京?でしたっけ「件の母」は構成が面白いし、ラストでガ~ンと落としますね。
>その生々しさは男性作家には描けない世界観
生理的に分かりすぎて目を背けたくなるようなところもありますね。
>読後の空がなんとなく曇天に見えるようなけだるさが残ります。
言い得て妙です。いつも曇天では困りますが、晴れに疲れたとき曇天が欲しくなりますね。
kyou2さん、こんにちは。
表紙借りというのでしょうか。甲斐庄楠音の絵に惹かれるように借りたのがこの本です。この女性図の不思議な微笑みと着物の柄(地獄絵図ですね)の対比が女性の心の中の何か激しいもの、修羅とも言うべきものを感じたのだと思います。
>崩れる寸前の、なまめかしく恐ろしい女人像だ。
まさにその通りです。凄みと恐さですよね。
ぼっけぇぎょうてぇは女郎が客に語る一人語り寝物語という趣向ですがこれが坦々と語る語り口がひたひたと恐怖を誘います。とても短い物語ですが、凝縮した言葉の数々が読み手の想像を膨らませてやみません。
私は「依って件の如し」が印象に残りました。
女性が件を描くとこうなるのだなという件の心境地に思えたからです。岩井志麻子さんの小説は人間のそして、男と女の関係の一番醜いところをありのままに描いていてその生々しさは男性作家には描けない世界観を形成してますよね。読後の空がなんとなく曇天に見えるようなけだるさが残ります。