野にありて
『野十郎の炎』 多田茂治 (弦書房)
生前にもてはやされて、死後急速に忘れ去られる画家もいれば、生前ほとんど知られること無く、死後その真価が認められる画家もいる。
久留米に生まれた高島野十郎は、典型的な後者の画家だ。
画壇とは無縁、師弟関係無し、油絵も独学、死ぬまで独身。ひたすら描き続け、そしてひっそりとこの世からいなくなった。
福岡県立美術館の学芸員・西本匡伸氏によって作品収集がおこなわれ、同館で個展が開催されたのが1986年。死後10年以上経っていた。
野十郎の絵は、写実だ。
けれども客観的な写実ではない。
自分がそのものの中に入り込んだような写実だ。
だから、筆使いの一つ一つに血肉があり魂があるような迫真感がある。
作品は数点の自画像と、ほとんどが静物となにげない風景。
それとおびただしい数の蝋燭の絵。
皆、ただ一本の燃える蝋燭を描いた絵だが、一つ一つ揺らめきが違うという。
野十郎は、それを描いた時の心持ちを一つ一つ覚えているという‥‥そういう炎だ。
野十郎にとって一番影響を与えたのは、詩を書き仏門に入った兄・宇郎であったに違いない。
宇郎は若き日の青木繁とも親交が深かった人物だ。
宇郎家族と親しかった野十郎だが、宇郎の長男・日郎、次女・満兎は社会主義運動にはしり、共に24歳で亡くなっている。
そして宇郎はますます禅の世界の人となり、野十郎とも疎遠となってゆく。
野十郎の風景画の中に、人物が描かれているものがある。
しかしそれは、あまりにも小さい。野十郎という人間と、他の人間との距離のようにも思える。
生命力溢れ、猛々しく枝を張る大木、狂おしく咲き誇る桜、それらに比べ人物は卑小ともいえるほどだ。
‥‥私はなぜかとても気になった。実物を見てみたいものだ。
70歳の野十郎が柏市増尾に一軒家の小さなアトリエを構え、一人絵を描く姿は、傍目からはさぞ孤独に見えたことだろう。
けれど、「貧相な群れより豊かな孤独‥‥」この本を読んでいると、野十郎の生き方にそんな言葉が浮かんでくる。
よほどの人間でなければ出来ない生き方のように思えるけれど。
著者の多田茂治氏は福岡県小郡市の生まれ。野十郎、宇郎が共に学んだ久留米市の中学明善校(現 明善高校)の後輩に当たるそうだ。
明善出身の画家では青木繁、古賀春江が有名だが、そこに高島野十郎も加わるのだろう。
多田氏には同じく福岡県出身の夢野久作についての著作があり、以前その中の一冊を読んだ。
『夢野一族 杉山家三代の軌跡』 多田茂治 (三一書房)
野十郎の高島家も、久作の杉山家もそれぞれに、そうせずにはいられない熱い血、非凡な血脈を感じさせるものがあった。
あ~、去年「没後30年 高島野十郎展」が見られなかったことが、何とも悔やまれます!
“野にありて” に対して8件のコメントがあります。
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>弥勒さん
図書館にあってよかったですね。
読みたい本が控えている時って、あァ、また増えちゃったという嘆きと、お楽しみが待っている!という期待で心が満たされますね。
私が読んだのは「葦書房」なんですが、今は「弦書房」が出しているようです。
葦書房のHPを見たら、なにやら確執がありそうで、人を避け、自然に身をおいた野十郎を読んでいただけに、だから人間は‥‥と思ってしまいました。
>ワインさん
そうですね。同じ蝋燭が描かれていても意味が違いますね。
野十郎の蝋燭は、そこに自分自身を見ているのだと思います。
自画像に近いものかと‥‥。
ラ・トゥールの描きたかったのは、蝋燭の火を見つめる人の信仰心であるような気がします。
また読んでみたい本が増えました。
図書館を確認したら在庫してましたね。
画家には2種類あるのでしょうか。自分を外へ開放するタイプと、自分の内なるものだけをみつめる画家と。
ロウソクの炎を見つめる画家はなにを見ていたのでしょう。ラ・トゥールの絵のなかに登場する人物も炎をじっとみつめていますね。
お兄さんが禅僧で弟が画家というのも大変興味深いです。違った方法で、違った道から、もしかしたら同じものを見ていたのかもしれないですね。
>みちこさん
本に作品が載っているのですが、白黒なのでよく分かりません。実物を見てみたい作品が沢山ありました。
作品との出会いって、人との出会いのように縁ですからね。きっとそのうち。
>言うは易し行なうは難し
そうですね。信念か、何だか久しぶりに聞く気骨のある言葉かも。
東大に特待生で入学し、卒業時には恩賜もあったのにそれも辞退して、学者としてではなく画家という道を選んだ。
淡々と実行し続ける人、本当にすごい人です。
kyouサンのブログを拝見するたびに、さてさて世の中には何という素晴らしい画家たちが居るものか、と驚きます。
野十郎の自画像を見れば、生きることに一片の妥協も許さないというのが見て取れます。
お兄さんの宇郎一家が、これまたすごい人たちですね。まさに、kyouサンのおっしゃるとおり、熱い血、非凡な血脈。お互いに影響しあっていたのかもしれません。
作品は、画面で見るだけでも、素晴らしいですね。
人に認められるかどうか一切に背を向ける、というのは、言うは易し行うは難し。信念の人。実に強い人です。
よい人を教えてくださって有難う。
>高人さん
田中一村も高島野十郎も、ただ一人自分の絵を描き続けた画家ですね。
おっしゃるように、迫ってくるものはモノじゃなくて、それに宿る精神のような感じがしますね。
没後30年展は見られませんでしたが、去年別の展覧会で「りんごを手にした自画像」「からすうり」「蝋燭」の3点を見ることが出来ました。
「自画像」の凄みは尋常じゃありませんでした。
高島野十郎は、以前民放の「お宝、、、」で知りましたが、NHKの番組で知った田中一村と並んで、好きでもあり気にもなる画家です。
写実的な描写の内に浮かび上がってくる象徴的表現が、言葉を越えて迫って来ますね。