古典を超えて
先日、そごう美術館に「有元利夫展」を見てきた。
纏まった数の作品を見るのはこれが初めて。幸い空いていたので、自分のペースで見ることが出来て有難かった。
清楚で美しく構成された画面、そこには豊穣な精神が溢れていて、見ている者を何か満ち足りた心持ちにさせる‥‥。
ああ、久しぶりに気持ちの良い絵を見たなぁ、と感動した。
有元氏の著作からの引用で、画面に積極的に「風化」を作っていきたい、というような言葉が館内に掲示されていた。
なるほど画面のマチエールはどれも、擦れた、枯れた、晒された、古びた、朽ちた感じの表現になっている。
風化された美しさは、寂びの美しさだろうか。
瑞々しさは、これから衰退へ向かう前の輝きで、流動的だ。けれど、寂びてしまったものはこれ以上行きつく所が無い。
それは「永遠」を感じさせる安心感があるのではないだろうか。
作品は皆、廃墟の美しさに似て、時間の止まったような、過去を思い起こすような時間が流れていて心地よかった。
もう一つ、引用からだと思ったが、ありのままを写すのではなく、対象のリアリティを表現したいと言うような言葉もあった。
氏の描く女性は、独特な形態をしている。それが絵の中にピタッと収まって存在感を持ち、一つの世界を作っている。
借り物でない「自分の形」だからこそ、それが可能なのだと思う。
個人的な思い込みで気になったのは、「手」の描かれかただった。
自分の好きな画家のクリヴェッリにしてもポントルモやレオナルドにしても、手の形態や表情が素晴らしいので、どうしてもそこを見てしまう。
有元氏の人物はどの絵も顔ほどに、手や指を細かく描いていない。
それは、そこに手があるといった最小限の表現に留めていることで、全体としての人物が「在る」ということに重きを置いているのだと思うし、氏の人物の形態はオリジナリティのある美しいものだと思う。
少し話は飛ぶけれど、絵に限らず、顔の表情と共に手の表情というのは、とても感情を表すものだと思う。
だから、有元氏の簡略化した手の表現が、私には氏の作品にも見られる「静けさ」の理由の一つでもあるように思えた。
手や指の表情を描かないことで、生々しい感情は隠れ、ざわめきのない、喜怒哀楽を超えた人間の存在感が表れているように思うのだ。
他にもつらつらと、フレスコの良さは日本画の良さと通じるなぁ。とか
「厳格なカノン」の梯子は均等じゃないなぁ、鳥の形のような雲は何を表しているのだろう?とか
「ロンド」という作品はゴヤの「The Straw Manikin」みたいだなぁ、などなど思った‥‥
有元氏の作品は、亡くなられてからまだ20年余しか経っておらず、UPは出来ません。
「彌生画廊」で見てください。今年も個展が開かれるようです。
http://www.yayoigallery.com/arimoto/arimoto-index.html
「そごう美術館 有元利夫展」
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/07/0102_arimoto/index.html
“古典を超えて” に対して6件のコメントがあります。
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>monksiiruさん
幾何学的に整えられた画面はピエロ・デッラ・フランチェスカを強く感じさせますね。
でも影響の強い初期の作品から、どんどん有元氏固有の形や色に進化しているところが素晴らしいです。
ほんと、マトリョーシカの形に似ていますね。気がつかなかったなぁ。
ちょっと不思議な雰囲気もそんな感じがします。
有元利夫の絵を見ていると色々と想像が膨らみますね。
kyou2さん、こんばんはです。
有本利夫って38歳で亡くなっているのですね。若くに逝ってしまったのだなと思いながらHPを拝見してました。
色がアースカラーというか自然色を使っているのでとても優しい世界観を作っていますよね。同時に幾何学的というか静かな音のない世界を感じました。
kyou2さんの仰るとおりに手を簡素化しているのでなんというかマショトーリカみたいです。この無機質で静かな中には何があるのかな?とマショトーリカみたいに同じ世界がずっとあるのかと思うとそれはそれで夢幻の断続する終わりのない世界でたまらないのですが。
一度、本物の原画を是非見てみたいです。
>みちこさん
この方はとても若く亡くなってしまって、制作期間がとても短いのですが、もしずっと作品を描いていたらどんな作品になっていったのかな、と思います。
ドラマチックにも色々ありますよね。陳腐なものから崇高なものまで。
作品に、激しい感情の吐露を見たい人もいれば、有元氏の作品のような静かな調和の取れた人間性を見たい人もいますよね。
おっしゃるように、色がとてもきれいでしたよ。生の色じゃなくて美しく古色を帯びた色になっていて色と形がピタリと合って、存在感がありました。
印刷では沢山見ることがありましたが、目の当たりにして本当に美しい画面でしたよ。
>ワインさん
>どこかあの世的な、生々しさとは無縁の世界を彷彿とさせますね。
そうですね。澄んだ気持ちにになります。
軽みがあるけれど、野放図では無くて、何て言ってよいか分かりませんが。
どの絵も見ていると、面倒な日常もこんな風にスコーンと割り切れたらいいのにとも思いました。
ははあ、なるほど。
「ざわめきの無い、喜怒哀楽を超えた存在感」という表現は良いですねえ。
ピエール・デ・ラ・フランチェスカの作品も、ネットで見ました。描かれている場面は、ドラマティックなんですが、画面には、静謐で時の止まった感覚しかないんですよ。
有元氏は、そういうところに、ご自分との共通点を見出だされたんですかねえ。
手の表情は、画面からは分からないのですが、体もがぼっとした衣服で大きく覆ってしまっているし、生々しさは全く無いですね。
手の表情と言えば、モナリザを思い浮かべますが、子供の時、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵を始めてみた時、不謹慎ですが、日本の劇画漫画を連想してしまいました。そういうドラマティック性とは正反対のような印象です。
実物を見ると、岩絵の具の質感が、また、独特な印象を強めているんでしょうね。色が実に美しいですねえ。
前にテレビで見た記憶があります。
おっしゃるとおり、フレスコの良さは日本画のよさに通じるものがあると、私も感じました。
岩絵具の乾いた質感は、どこかあの世的な、生々しさとは無縁の世界を彷彿とさせますね。