モンス・デジデリオ!?
損保ジャパン東郷青児美術館に「ウィーン美術アカデミー名品展」を見てきた。
見たかったのは、ルーカス・クラナハ(父)のテンペラと油彩の板絵。
他には何が来ているのかあまり知らずに行ったのだが、ルネサンスから近代まで400年、板絵や肖像画、風景画、風俗画、静物画、花卉画等々バラエティに富んでいた。驚きの対面もあり実り多い展覧会だった。
それぞれの様式に則り、画家が感性と技量とを注ぎ込んで描かれた数々の絵画。
あまりに放縦で下品で暴力的なものが溢れる中、こういう一種秩序ある作品を見るとほっとするところもあった。
ルーカス・クラナハ(父)「不釣合いなカップル」
老いた男と若い娘、見ればこの絵が何を表しているのかは一目瞭然。娘の、心ここに在らずな表情と、しっかり男の金袋を探っている手が笑える。「老いは愚行から身を守らない」という諺があるそうだ。
ルーカス・クラナハ(父)「ルクレティア」
漆黒の背景が人物を鮮やかに浮かび上がらせていて、実に美しかった。
板の上に描かれた堅牢で、なめらかなテンペラは、一種工芸品のような存在の美しさがある。クラナハの描く女性は、顔といい身体といい独特なフォルムがあって面白い。どちらかといったら、悪女を描いた方が魅力的な顔だな、なんて思う。
油彩の板絵で、実物は37.5×24.5cm。もっと大きな絵だと思っていたので意外。
死をもって汚されたことへの抗議をする図、なのだが裸とは。なんともエロティックな作品。
こういう作品は愛蔵秘蔵で、じっくり見ていたくなるのが人情というもの。
個人向けに好評だったとのことで量産され、工房の成功を築いていったそうだ。サイズが小さかったのも頷ける。
秘すれば花というけれど、それにしてもあの布は薄すぎる。サランラップ並だが、存在していることに意味があるという代物だ。
一目見ればすぐ分かるという点で、全く趣は違うけれど、春信を思い出した。春信はクラナハを晒して晒して、毒を抜ききった感じだけれど。
他に板絵ではファン・ダイクの「15歳頃の自画像」が素晴らしかった。
驚いたのはルーベンスの「レオナルドの「アンギアーリの戦い」のパラフレーズ:軍旗をめぐる戦い」があったこと。
ミケランジェロの「カッシーナの戦い」とレオナルドの「アンギアーリの戦い」相対する壁面に描かれるはずだったが、どちらも未完に終わり幻の壁画となったもの。
ルーベンスの「アンギアーリの戦い」のデッサンは図版で見たことがあったと思うが、油彩は初めて。実物が見られたなんて驚きだった。
もう一つ驚いたのはこの作品。
フランソワ・ド・ノメ(通称 モンス・デジデーリオ)「奇想の建築」とあった。
あのモンス・デジデリオ!?ホントに本当?と思い近くに置かれているカタログを調べてみると、
“近年まで幻の画家「モンス・デジデーリオ」と作品が混同されていた画家であり、歿年は不明。”とあった。
通称と書いてあると、カタログを見なければ同一人物かと思ってしまうのでは?と思った。
私はド・ノメという画家を知らなかったし、デジデリオの作品も図版でしか見たことは無いが、作風はよく似ていた。
モンス・デジデリオに関して(09/10/3)
あと印象に残ったのは、17世紀黄金時代のオランダ絵画。
ラヘル・ライス「花瓶のある静物」
この画像では伝わらないけれど、驚くほどクリスタルな人工的な世界が広がっている。自然とVanitas(空虚)という言葉が浮かんでくる。ああ、これは花の屍骸なんだ‥‥と思う。
精緻で薄いガラスのような花に、人の心や世の中の儚さが見えるようだ。
私の好きな本に荒俣宏の『架空庭園』がある。
その序でこう述べている。
さても、読者よ、架空花の咲きにおう園で、めずらかなる花の絵をめでるおり、やがて心の琴線に触れてくる感興には、二とおりの音色があることをごぞんじであろうか?
白い、科学的な感動と、黒い、神秘的な感動とである。じつをいえば、この世には<白い花譜>と<黒い花譜>とが存在する。
‥‥ 中略 ‥‥
だから、<黒い花譜>は市民の家の壁を飾ったデコラティヴ・アートにほかならない。これらは科学的精密描写のためにではなく、情念の解放のために描かれた。 (P14~18)
写真の発達と共に<白い花譜>=ボタニカル・アート自体の意味も全く変わってきた。
ボタニカル・アートは充分デコラティヴ・アートであると思う。
荒俣さんも両者は対立関係にあるのではなく、あいたずさえて発展してきたと述べている。
私が<白い花譜>に興味があるのは、情念の解放ではなく、情念に形を与え整理してくれること。形の中でエネルギーを自由に出せる安心感がいいのかもしれない。
まぁ、それは一種の情念の解放でもあるわけか?
展覧会からちょっと反れたが、ツラツラ思い出しながら書いているからこんなもの。
見終わってから、同じ新宿で「日本ボタニカルアート展」を見た。毎年開催されている協会のプロの展覧会。
流石に充実した内容で、大いに勉強させてもらった。
それから原宿の隠れ家的な「太田記念美術館」へ。感想はそのうち。
この日は結局お昼を食べ損ねたのでした。
「損保ジャパン東郷青児美術館」
“モンス・デジデリオ!?” に対して8件のコメントがあります。
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>みちこさん
レス遅くなってすみませんでした。
>途中から、意外なことに悲しくなってしまって黙ってしまいました。・・・
らしいですね。
ずっと他人を攻撃しつづけられる人って、ある意味壊れていると思います。
>おっと、つい真面目になってしまった。
真面目に話せないと面白くも可笑しくもありませんよ(笑
そういえばグレゴリオ聖歌、懐かしい。
「年とともに心に垢がついてくるのは嫌ですね。・・鈍ったり曇ったりするのが嫌ですね」
芸術家といういい方は抵抗がおありでしょうが、やっぱり芸術好きな人のせりふだな、と思いました。何が嫌か、は、その人をはっきり表していますよ。
私の場合は、たまたま昨日、携帯電話の契約変更にauショップに行きまして。その営業マンがあまりに脅迫的な物言いをするので腹が立ってこちらも言い返していたのですが、途中から、意外なことに悲しくなってしまって黙ってしまいました。別に彼が悪い性格なんじゃなくて、彼もサラリーマン、会社から契約についてノルマを課せられれば、いつの間にか、客が悪いような応対をしてしまう。別に彼が悪いわけじゃない、搾取されてるだけだって感じたらしくて。
ただ、私は嫌だと思いました。自分はああなりたくないって。経済的に苦しくなろうと何だろうと、心が貧しくなるまねだけはしないな、と思いました。おっと、つい真面目になってしまった。
音楽ですが、高校時代に、グレゴリオ聖歌が好きでしたよね?異様な雰囲気。あれ、また聞きたいんですがね。
>Yadayooさん
>「若さは愚行と手を携えていく。しかし・・・」というコトバの後に続きそうなニュアンスがありますね。
流石に上手いことおっしゃいますね。結局年齢には関係ないのでしょうね。
人間どこかしら愚かなところがある方が人間らしい?
でも、だんだん歳とともに心に垢がついてくるのはイヤですね。
別に清純ぶっているのじゃなくて、鈍ったり曇ったりするのがイヤですね。
まあ、自分にも愚かな部分が沢山ありすぎて、とてもとても人様のことなんぞ(笑
開き直って、愚でもいいから、快でありたいような。
「老いは愚行から身を守らない」という諺、味わい深いです。
「若さは愚行と手を携えていく。しかし・・・」というコトバの後に続きそうなニュアンスがありますね。不釣合いなカップルの若い女性は、こちらを表しているのでしょうか。それを描いている画家は、人間どいつもこいつもと、あきれ果てているんでしょうか。
死をもって汚されたことへの抗議をする図も、重なった意味がありそうですねぇ。
>ワインさん
音楽は疎いのですが、おっしゃることはなるほどなぁと思いました。
めったに音楽は聴かないのですが、唯一好きなのがバッハです。見抜かれちゃった感じ(笑
教えていただいた「ボタニカル展」内城葉子さんのナスとトマトの二作品、画面にセンス良くアレンジされていて注目しました。
色々な描き方があるのですね。
情念の解放ではなく、情念に形をあたえ整理してくれること>
kyouさんは絵を描く行為のなかにそういうものを感じるのですね。私の場合は音楽を聴くことのなかにそれを感じます。たとえばロックとか一部のポピュラーとか演歌とかは、情念の解放を聴き手が味わうのでしょう。バッハはみごとに人の情念を整理してくれるように私には思えます。
>タカトさん
初めて見た画家で、モンス・デジデリオだといわれれば、そうかな?と思ってしまいそうでした。
おっしゃるように、本物の方はもっとガラガラと精神の支柱を揺さぶるパワーがあります。
デジデリオの実物を見たいものです。
フランソワ・ド・ノメの「奇想の建築」、謎めいた感じがとてもいいです。もっと不穏な感じが募れば、迫力満点ですが、、、