視点の面白さ
三の丸尚蔵館「花鳥-愛でる心、彩る技 <若冲を中心に>」の第3期の展示を見に行った。
今回は中国絵画も逸品ぞろい。
伝 李安中の「竹粟に鶉雀図」は若冲の「秋塘群雀図」と同じく粟に雀。粟の穂に雀がつかまる様子など似ていて、見比べるのも面白かった。
また、伝 銭選の「百鳥図」は、鳳凰を中心に鶴、雉、孔雀、鳩、鷺、鴨などなど、何種いるか分らないくらいの鳥が配置されているて、鳥たちの楽園といった感じだ。鳳凰の少し艶かしいような顔(?)が印象的だった。
今回も若冲の感想を中心に。
展示は右から「梅花小禽図」「秋塘群雀図」「紫陽花双鶏図」「老松鸚鵡図」「芦鵞図」「蓮池遊魚図」
「秋塘群雀図」
画面の上から判で押したように同じ形の雀の一群、下には一つとして同じではない形の雀が描かれている。
一斉に舞い降りてきたと思ったら、地上に着くなり、めいめい勝手に粟を啄ばんでいる。その対比の妙。
豊かな秋の恵みに、これぞ欣喜雀躍の雀達のさえずりが聞こえてくるようで楽しい。また、粟の黄色も画面に暖かみを与えているように思った。
飛来する雀の描き方だが、下書きに型を使って配置を練ったのだろうか?実際に舞い降りる雀のイメージを、完全にデザイン化してレイアウトしている。
よく見ると微妙に個体差があるが、なんと言っても一羽白いものがいて、これは一体?
“群れには必ず毛色の変わったのが一人くらいは居るものだ、逆にそれが自然なのだから、自分はそういう自然体を貫くのだ” と言う若冲自身を暗示したメッセージなのかな。
「芦鵞図」
白い鵞鳥は、例によって黄土と白の裏彩色がなされている。
緻密な白い羽の厚みが、どっしりとした重量感を感じさせ、背景の墨描きされた芦と際立ったコントラストを見せている。
以前、若冲の水墨画をはじめて見たとき、あまりの素晴らしさに、もし「動植綵絵」が描かれていなくても、水墨画だけで充分天才じゃないかと思った。「芦鵞図」はその感動を思い出させてくれた作品。
「蓮池遊魚図」 手前水面部分
今回一番好きだったのはこれ。
一見して視点の混乱があって、そのさなか、鮎が優雅に横切っているのがいい。
美しい蓮を最大限に美しい形に、美しい魚達も最大限に美しい形に、と思えばこうなる?
それぞれの美しい形を描きたいと思えば、とても一つの視点からじゃ間に合わない。見せかけの整合性をあっさり捨てて、森羅万象同等価値を有する世界を一幅に収めている感じ。
また、絵巻物でいう「霞」の効果のように、蓮がフレームとなって水中世界を覗き込むような感じになっているのも面白いなぁと思う。
だいぶ以前に読んだのだが、荒俣宏『帯をとくフクスケ』という本の中に、海中にいる魚の描き方について、西洋と日本を比べた文章があった。
要は西洋の視点は、ガラス越しに海を断面図、タテ切りにして見たように描かれ、日本の視点は海上にあって、ごく自然に例えば船べりから下を覗き込んだように描かれている。さらにその視点は立てたカンバス、床に広げた和紙に対応し影響しているのだそうだ。
若冲の絵を見てみると、手前は水面の上からの視点で描かれメダカもそのように見える。
が、蓮のフレーム内では画面が立って視点は西洋のそれに思えるのだ。恐るべし、若冲なのだ。
「三の丸尚蔵館第40回展開催要領」
http://www.kunaicho.go.jp/11/d11-05-06.html (「百鳥図」が見られます。)
“視点の面白さ” に対して8件のコメントがあります。
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>Yadayooさん
どういたしまして。丁寧だなぁYadayooさんは。
いつもよい本を教えていただいているのは、こっちですから。
浮絵のご紹介ありがとうございました。
この絵はどことなくチグハグだなぁと見ていたら、
消失点があちこちにあるようですね。まさに悪戦苦闘。
ベーコンじゃありませんが、知らず知らずに当たり前と思っている考え方や見方(偶像)を、自覚して変えていくのは大変だと思います。
>みち子さん
>自然への絶対の信頼感・・・本当にそうですね。
動植綵絵30幅どの絵を見ても、自然への信頼感、あらゆる生命に対して同等に目を向け、尊重する姿勢がありますね。
そして全てのものは釈迦の教えに等しく従っているのだ、という教えなんでしょうね。
構図やらとは全然関係の無い感想ですが、独創的でありながら、自然への絶対の信頼感に満ちているので、見ていて画家の精神の安定を感じます。こっちまで安心しちゃうなあ。
>Yadayooさん
Yadayooさんに楽しく読んでもらえて、うれしいです。
> 立体を影絵のようにどこかの平面に落としこんでしまう。
> この絵画は、池の底面に投影したんでしょうか。
平面に落とし込む、ふむふむそんな感じかもしれません。
なんとも微妙ですね。若冲は画面作りに独特な面白さがあって、それが魅力ですね。
消失点のない感じは、奥に身分の高い人や重要人物がいる場合、その人が小さくなり過ぎない利点がありますね。
逆に、浮世絵でもパースをつかった浮絵は、料亭の建物だとか、その廊下だとかが、何百メートルも
ありそうなくらいのものがありますね。いくらなんでもそりゃないよって言うくらい。
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/gallery/ukiyoe/ukiyoe_1_14.html
ホント、先人達は悪戦苦闘しながら、西洋から学び取っていったのですね。
若冲もあと、4期5期となりました。早く全部見たいような、ずっと終わらないでいて欲しいような。
第3期の展示会の記事を、楽しく読ませていただきました。
話題となっている「蓮池遊魚図」の視点の不思議さですが、
他の若冲の絵画とも、絵巻の絵画などとも共通した感じがしますね。
日本人は、そんなふうにものを見ていたのかなぁと不思議です。
立体という3軸でものをとらえる視点を拒否しているかのように感じますね。
立体を影絵のようにどこかの平面に落としこんでしまう。
この絵画は、池の底面に投影したんでしょうか。
源氏物語絵巻なんかは、床面に投影していますしね。
そしてパースの消失点がなくて、平行な線はあくまで平行線で描かれます。
西洋美術が紹介されて、日本の先人達はものすごい苦労をしたのかも知れませんね。
>Takさん
こちらこそTBありがとうございました。いつも楽しみに読ませてもらってます。
近くに蓮池があるなんていいですね。蓮の花大好きです。
実地検証とは・・・見習わなくっちゃ。
指で枠を作って、池の水面だけを入れるようにして、遠近感をなくすと、やっぱり水面が立った感じに見えるのかもしれませんね。
それで空間を魚が泳いでいる風なのかも。
当時の人はこの絵をどういう風に見ていたのか、知りたいものです。
こんにちは。
コメント&TBありがとうございました。
「蓮池遊魚図」がどうしても気になって
自転車で近くのお寺まで行って蓮池を
観てきました。実際に。
やっぱりこんな絵ありえませんよね。当然。
それでも成立しているのですからやっぱ凄いです。