人形アニメーション

先日岩波ホールで「死者の書」を見てきた。

NHKの人形劇などで有名な川本喜八郎氏によって、人形アニメーションというかたちで折口信夫の『死者の書』を映画化したもの。

『死者の書』は、謀反の罪で処刑された大津皇子、當麻寺の中将姫伝説(蓮糸で曼荼羅を織り上げた云々)、山越阿弥陀図のイメージなどをモチーフに作られた小説だ。

(あらすじ)

大津皇子は処刑の時、一目見た耳面刀自(みみものとじ)が執着となって、墓場の中で亡霊としてよみがえる。

一方、藤原南家郎女(ふじわらなんけのいらつめ)は、信仰心厚く、阿弥陀経の千部写しにとりかかっていた。その最中、二上山の男嶽と女嶽の間に神々しい俤を見る。

大津皇子の一念が郎女を二上山の當麻寺に引き寄せ、いつしか郎女の見た俤は大津皇子の亡霊と重なっていく。

郎女の前に現れる大津皇子の姿は、白い肩もあらわでが寒々しい。お寒かろうと、身を覆う衣を蓮糸で作る決心をし、苦心のすえ布を織り、繋ぎ合わせて一枚の大きな布にした。

郎女は、思案してそこに大津皇子の俤を描きあげた。すると、人々が見守る中、布一面に幾千もの菩薩の姿が浮かびあがってきた…。

郎女は信仰心厚く、清楚で、無垢な存在として、一人の人間以上に象徴的なありかたをしているように思う。人形はその意味で生身の女の生々しさがなく良かった。

郎女の人形の顔は楚々として清清しいが、つかみどころのない感じもして、どこかもどかしさも感じた。

見る側が抑制された人形の面に、演出によって生まれる様々な感情を読み取らなければいけないのだろうが、私にはトータルな郎女像にやや物足りなさを感じた。

けれど、これは全く個人的な郎女像の相違。これぞ郎女、と思った方も多いことだろう。

見終わって原作をまた読んでみた。

いくつかの場面が思い出されて、それはそれで面白く、なるほど映画のあの部分はここの表現かと、反芻してみるのも悪くなかった。小説のどこに感応するかは本当に人それぞれだ。

映画の丁寧な作りに、監督のこの小説に対する崇拝とも恋慕ともいえる思いが改めて感じられた。

小説の中で好きな箇所を一つ。

郎女は蓮糸での機織が上手くいかず、どうしようと悩み疲れまどろんでいた。すると當麻語部姥と思われる人物が現れて、どのようにすればよいのか教えてくれた・・・。

郎女は、ふっと覚めた。あぐね果てて、機の上にとろとろとした間の夢だったのである。だが、梭(ひ)をとり直して見ると、

 はた はた ゆら ゆら はたた。

美しい織物が筬(おさ)の目から迸る。

 はた はた ゆら ゆら。

思いつめてまどろんでいる中に、郎女の智慧が、一つの閾を越えたのである。

物事の理解でも、何かをクリアするときでも、ある瞬間にすっと上に上がれるように思う。

要は、それまで倦まず信じ継続していられるかどうか、だろう。

その上で、苦しみの中にいた人がフッと楽になれる。そんな悟り方にどこか人智を超えた神秘を感じるのだ・・。

人形アニメーション” に対して1件のコメントがあります。

  1. Yadayoo より:

    >物事の理解でも、何かをクリアするときでも、ある瞬間にすっと上に上がれるように思う。>要は、それまで倦まず信じ継続していられるかどうか、だろう。これはおっしゃるとおりだと痛感いたします。地道に継続して努力する人は、ある意味コワイ存在ですね。はるか及ばないレベルまで到達してしまう潜在パワーがあります。「継続すること」とか「努力する」と簡単に言ってしまいますが、本当はそんな生易しいことじゃないなというのが実感です。途中で、飽きてしまったり、信じられなくなったり、意味があるのかなんて思い直したり。誘惑がいっぱいです。

コメントは受け付けていません。

展覧会

前の記事

なぜ頭が小さいのか

次の記事

左うちわも楽じゃない。