「あわれ」と「あっぱれ」

花鳥風月の科学 (中公文庫)

『花鳥風月の科学』 松岡正剛 (中公文庫)

日本的なるものの正体とは何か?それはどのように生まれ、生成されてきたのか?

単純な日本礼賛でもなく、自虐的な日本批判でもない。ニュートラルかつ画期的な日本文化論だ。

「山」「道」「神」「風」「鳥」「花」「仏」「時」「夢」「月」

キーワードとなるこれらの言葉をもとに、「イメージの誕生」と「イマジネーションの変遷」を追ってゆく。

特に山から道、道から神に至る考察は、日本人の根源に関わる問題で、なるほどと納得するとともに、大変エキサイティングでもあった。

著者はイメージの母体として「山」をあげ、「道」「神」で日本的なシステムの基本構成、それがメディア化されるためのプログラミングのしかたを「風」「鳥」で説明している。

よく八百万神といいますが、たくさんの神々がいるというなら、それはギリシア神話にだって多数の神はいる。日本の神々がたくさんいるというのは、たんに神名や神格が多いというのではなく、生活の周辺にカミの気配をよりますオブジェが満ちているということなのです。私はこうしたオブジェを「マインドギア」とも名づけています。マインドギアとは「気持ちを託せる道具」といった意味です。

 またおいおい説明していきますが、花鳥風月の心得とはこうした依代や物実をしだいに美意識で高めていったものとも考えられます。 (P101)

カミが憑依するものでそれが物体であるばあいは特に「形代(かたしろ)」とか「物実(ものざね)」というのだそうだ。

美意識で高めていったものが、すなわち芸術となるわけか。

「芸術作品をつくる」という行為の意味のようなものを感じた。

しばしば芸術家が作品を通してカミと対話する境地にたつ、あるいは何かの真理にたどりつく、無我忘我の陶酔におちいる。そういったことの理由であるような気がした。

私は月は「ほか」そのものであると言いました。それは、かつて古代人が「山」や「風」に感じてきた「むこう」(there)というものと同質です。それなら、月と何かでやっと一対になるという「間にあう勘定」というものがあるはずなのです。われわれは、そういう“月的な相手”というものをいつまでも探している旅人なのでしょう。

畢竟、花鳥風月とは「片方」を求めて「境」を感じる世界です。 (P423)

これは、言い尽くしているという感がある。

「境」を感じるとき、人は花鳥風月から心を感じるのかもしれない。

人はつねに欠けた存在であると思う。それぞれの心のうちにある欠乏を埋めたいと願いながら生きている。そしてそれは永遠に埋まることがないだろう。

そう言えば、同じ花の絵を見ても、それがよく思える人と、そうじゃない人がいる。

好みというのは、そこに自分の欲するものが見出せないということなのだろう。そこに自分の探す片割れがないのだ・・・

もう一つ印象に残ったところは

日本文化の多くが仏教文化あるいは神仏習合文化の所産であったことも、いまでは忘れられています。これは明治の廃仏毀釈があまりにも大きな影響を与えたせいですが、日本の教科書はその廃仏毀釈がヨーロッパのユダヤ教徒迫害や宗教革命に匹敵する大事件であったことをくれません。 (P391~P392)

このことは、主と客を入れ替える日本独特な文化であるとか、「マレビト」の考え方とか、貴族的な「あわれ」が武士的な「あっぱれ」への変化、へりくだった「手前」が「てめえ!」への転身とか色々なことを含んでいるように思えた。

昨今の殺伐とした世相も、日本人が根源的な拠りどころを失ってしまった(失いつつある?)事が大きな問題であるように思う。

畏れを感じるなにがしかのカミの存在が欠落しているように思う。畏れのないものに躊躇は無い。

あのジル・ド・レーでさえ、キリスト教の神の前には跪き、地獄を恐れたのに。

しっかし本書こそ、そこここにあわれの花が咲き、あっぱれの真理がごろごろしてるのだ。

たまたま読んでいる最中に、「バーク・コレクション」を見にいったが、日本文化の流れ、「真」と「奇」についてなど、読んでおいてよかったなあと、つくづくありがたく感じた。

有名なサイトで、ご存知の向きも多いけれど・・

松岡正剛さんのサイト http://www.isis.ne.jp/top.html

中でも「松岡正剛の千夜千冊」は圧巻の読書指南。

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