「雨宿り風俗図屏風」

先週「ニューヨーク・バーク・コレクション」へ行ってきた。平日でまあまあの混み具合い。

お目当は蕭白だったが、どれも質が高く、思わぬ作品との出会いもあり満足だった。

展示は縄文土器からはじまり、江戸の若冲まで続く。

最初にあった縄文、弥生の土器が美しく、こうして二つ並べてあると、改めてその違いに驚く。

これは精神史的に大変換があったんだなぁ、とつくづく思う。形態の違いはモチロンだが、ものの考え方の違いのようなものを強く感じた。

快慶の地蔵菩薩立像は、50センチくらいのスラリとした地蔵菩薩でとても男前。

私はいつも展覧会で「どれが欲しいかな」と思って見る。これは欲しい!

「洛中洛外図屏風」は兎に角見て楽しい。描かれている一つ一つの生活が、尊いものに思える。

さて曾我蕭白の「石橋図」

目の当たりにすると、墨付きも鮮やかで躍動感が漲っていた。

超現実的な高みにかかる石橋を目指し、無数の獅子たちがひしめきあいながら駆け上がっていく。

峻厳な岩にたじろぐもの、跳び損ねて谷へ落ちていくもの、群れに埋もれもがくもの。

一際大きな獅子が、どこか悠然とユーモラスに眺めているのが面白い。

深山幽谷に獅子図といっても、風情とか余情とか、所謂日本的な美というものはない。

そういう「美の規格」から外れている。

すんなり受け入れられる絵というのは、見る側と描く側に感性の共通項が多いという事だ。

蕭白の絵は、凡人の気持ちの入り込む余地の無いくらい、ダイナミックで奇妙奇天烈な絵が多い。

思いがけず出会えたのは英一蝶の「雨宿り風俗図屏風」 私の好きな絵だ。

突然の夕立に通りがかりの町人、旅芸人、老武士、職人など色々な人たちが、武家屋敷の門の庇の下、雨宿りをしている図。

子供はふざけて門の横木に逆さにぶら下がっている。

それを見た大人たちはコレコレと手を振る。

奥では女の人が腰を下ろし赤ん坊にお乳をあげている。

職人も芸人も仕事にならず一休み、老武士は悔しそうに立ち上がって天を仰ぐ。

縁もゆかりも無い人たちが、自然の気まぐれで一時同じ場所に集う。一蝶の筆はそれを優しく、陽気に、飄々と描いてみせる。

私が初めてこの絵を知ったのは、4年ほど前。

読売新聞の日曜版に「絵と人のものがたり」という1ページを使った特集があり、応挙、若冲、清方など、お気に入りをスクラップしていた。その中に英一蝶もあった。

自宅へ帰って早速探してみた。

すると・・・アレッ、「東京国立博物館蔵」となっている。・・・どうしてだろう「バーク・コレクション」だったよね?

そう思って、よ~く絵を見直した。…少し違っている。

大まかな構図や、門、そばの樹、職人、獅子舞の獅子、ぶらさがる子供、老武士などほとんど同じ。

今回カタログを買わなかったので、記憶している限りだけれど、バーク・コレクションの方は手前に燕が飛んでいたし、赤ん坊にお乳をふくませている女の人がいた。

博物館蔵の方にはそれが無い。

一蝶は島流しにあって辛酸をなめ、大赦で奇跡的に江戸にもどった経歴の持ち主。

「ままならぬ天気とままならぬ世の中」この絵の主題に一蝶は特別の思い入れがあったのか、単に人気の図柄だったのか。

いづれにしても、自分の目でバリエーションがあることが分って有意義だった。

最後の展示室は屏風絵が多かったが、中でも池大雅、与謝蕪村の屏風絵の受け入れやすさ、蕭白の屏風絵の受け入れがたさ、それが対照的で興味深かった。

「ニューヨーク・バークコレクション展」

http://www.enjoytokyo.jp/TK/TK060120burke.html

「雨宿り風俗図屏風」” に対して1件のコメントがあります。

  1. ショードヴァル より:

    豪華な展覧会ですねー。蕭白の「石渡図(石橋図?)」って違う奴を想像してました。色がついた奴ね。これは初めて見たかも。奔放でいいですね! 若冲の「月下白梅図」ってのも初めて知った。勉強せねば。そして、辻惟雄さんってまだご存命だったんですね… しかもこの展覧会の監修者なんですかー。すごいな。

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