中世の怪物
『彼方』 J・K・ユイスマンス著/田辺貞之助訳 (創元推理文庫)
作家のデュルタルは現実の世界に嫌気がさし、中世というキリスト教と殺戮と奇跡の世界に生きたジル・ド・レーの一代記を書き始める。
デュルタルを取り巻く友人達や人妻とのやり取りの間に、執筆中のジル・ド・レーの生涯が劇中劇の様相で挿入され、読者は現在(19世紀末)と15世紀を行きつ戻りつする。
ユイスマンスはデュルタルに、こう呟かせる。それは正にこの小説の主題であり、ユイスマンスの求めた道ともいえる。
一言で言えば、ゾラによって非常に深く掘り下げられた大道をたどっていかねばならないが、同時にまた、それと平行する道を空中に描く必要がある。それは現実の彼方、未来の境地へ達するもので、要するに心霊的自然主義を形成すべき道である。これこそは、はるかに高尚で、そしてまた強力な世界である。 (P11~12)
由緒ある大貴族であるジル・ド・レーは、ジャンヌ・ダルクを助けた勇敢な武将だった。けれども彼女が処刑された後、城に籠もり浪費にあけくれる。
困窮して怪しい魔術師たちをはべらせ錬金術に没頭する。錬金術を成功させるには悪魔の力が必要と説かれ、悪魔主義に陥る。
幼児を虐殺して悪魔に捧げ、自身も殺した子供を弄び快楽に浸る。その数150人とも800人とも言われ、最期は火刑となって死ぬ。
ジル・ド・レーの幼児虐殺が「悪」であることは分りきっている。それは当時も今も同じだ。
だが、中世は一人の人間の重みにとてつもなく差があった。殺された幼児はいわば人ですらなかった。戦乱と伝染病で多くの人があっけなっく死んだ。
今よりずっと死が身近で生が儚かったから、人々は信仰を必要としていたのだろう。
彼は宗教裁判で破門の宣告を受けると、大勢の傍聴人を前に涙ながらに罪の告白をし、神のゆるしを請った。
私は彼の残虐行為や悪魔礼拝にあまり興味はないが、そういう行いをしたにもかかわらず、「神」の裁きを恐れ、どうにかして破門を逃れようとするのは、いかなる人物なのかと思う。
騙されやすく信じやすく、残酷で、大げさに泣きわめく・・・まるで幼児性丸出しのバカ者のようだ。
また、地獄の業火に焼かれるということが、現実の火刑にも増して恐怖だったとは、キリスト教の底知れぬ力を感じる。
罪の告白がなされ、聴衆さえも彼のために祈り、神はゆるした。そして全ては終わりになる。
現代とはまったく違う「精神的な序列」があるように思う。それがジル・ド・レーの生きた中世の限界みたいなものなのだろうか。
彼が火刑に処せられたのは宗教裁判ではなく、世俗の裁判によってだった。
この小説でユイスマンスは、グリューネヴァルトの「十字架刑図」(カールスルーエ、州立美術館)を見た時の衝撃を、デュルタルの体験として書いている。
『彼方』においてグリューネヴァルトがどう書かれているのか。まぁ、それがこの小説が読みたかった大きな理由といっていい。
・・・実に激越な怖ろしい作である。グリューネワルトは写実派中のもっとも凶暴な芸術家だ!しかし、この無頼漢のような贖世主、この行路病者のような神をつぶさに眺めていると、そうした印象はおのずから変わってくる。腐った額からは後光がほとばしり超人間的な表情が、煮えたぎる肉体やゆがんだ容貌を明るくする。両腕をはったこの屍骸は円光もつけず、光輪も持たず、ただ赤い木の実さながらに点々と血しぶきを散らしてそそけだつ、茨の冠をいただくばかりであるが、まさしく神の屍骸である。・・・ (P17~18)
ユイスマンスは絵筆をペンに変えて、絵の細部に至るまで数ページにわたりこの絵を描写する。
彼方を見る目は、実に写実的な目でもあると思った。
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*ジル・ド・レーについては
『ジル・ド・レ論』 ジョルジュ・バタイユ著/伊東守男訳 (二見書房)がお薦めです。