久しぶりにユイスマンス
『三つの教会と三人のプリミティフ派画家』 J・K・ユイスマンス著/田辺保訳 (国書刊行会)
一言で言うと、独善的な審美眼で書かれた美術評論。
ユイスマンスは作品を目の当たりにして、独創的にその作品の世界を再構築してみせる。
作品と対峙したときの衝撃や興奮、率直な感想が文学者ならではの表現で書かれており、こちらも作品の生き生きとしたイメージが沸いてきた。
大きく二つに分かれていて、
一つは三つの教会(ノートル=ダム、サン=ジェルマン=ロクセロワ、サン=メリー)について。
私はこの部分はあまり興味が無かったので、若干退屈に。
もう一つは、三人のプリミティフ派画家について。
ここで言う三人のプリミティフ派画家とは、“イタリア、フランドルの中世末期、初期ルネサンスの画家”というような意味で使われている。
グリューネヴァルトの「イーゼンハイムの祭壇画」
フレマールの画家(作者不詳)による「聖母子」
15世紀フェレンツェ派?(伝バルトロメオ・ヴェネト作)「若い娘の胸像」
グリューネヴァルトのイーゼンハイムの祭壇画については、一章をさいて各部分について容赦ない批評と感想を述べている。この祭壇画に興味があるなら、ここだけでも読む価値があると思う。
「十字架刑図」はリアルを極める自然主義の、化膿した肉体を持つキリスト。そしてその裏の「復活」は自ら発光する光となったキリスト。
ユイスマンスの求める自然主義を超える神秘がそこにあった。現実から『彼方』へと誘う聖なるもの、グリューネヴァルトはそれを、この他に類を見ない二枚で表したのだ。
フランクフルトの美術館内にに隣接して展示してある「聖母子」と「若い娘の胸像」
私は「聖母子」は掲載写真を見て初めて知った作品で、正直ユイスマンスが熱狂的に支持するほどのインパクトはなかった。
二枚の絵は、前者を直截的な素朴なキリスト教精神、後者を堕落したキリスト教精神と見ることが出来る。
「若い娘の胸像」に対するユイスマンスの惹かれつつの拒否反応はちょっと面白い。
この謎の人物、冷酷であって美しく、挑発しながら、ここまで驚くほどに冷静でいられるこの両性具有者は、いったい何ものなのか。けがれているくせに、真正面からたたかいを挑みかける。刺激しつつも、警告を発する。誘惑するふうでありながら、慎重である。ユストゥス・リプシウスの表現を借りるなら、「ピュリタス・インピュリタィス(不純さの純粋さ)」か。 (P180)
「若い娘の胸像」
胸に司教用の十字架をかけていることから、老いた教皇の若い情婦であるとも。
澁澤龍彦の『世界悪女物語』では、この絵のモデルはあのルクレチア・ボルジアとしてあるが、いずれにしてもルネサンスの悪の象徴的肖像であることに違いは無いだろう。
ユイスマンスにとって、これらの作品との直接の出会いは、自身の文学の方向性の確信を得る天啓だったといえる。
様式がどうの、技法がどうのというのではなく、自分の全感覚をもって、感じ、解釈する。
作品と卓抜した鑑賞者の出会いこそ、芸術にとって掛け替えの無い財産なのだと思った。