「ニセモノ」
『リプリー』 パトリシア・ハイスミス著/佐宗鈴夫訳 (河出文庫)
ご存知、映画「太陽がいっぱい」の原作。
その印象はあまりに鮮烈だけれど、近年映画化された「リプリー」のトム・リプリー役、マット・デイモンの方が、原作のリプリーには合っている様な気がする。
ディッキーはジュード・ロウ、マージはグウィネス・パルトロウだった。ビデオでだいぶ前に見たので詳細は忘れたが、映画そのものは前作の方がいいかな。こちらの方が原作には近い感じだったけど。ジュード・ロウはいつ見ても華があってヨカッタナ。
話は、トム・リプリーが「イタリアに行ったきりの息子を呼び戻して欲しい」と富豪のグリーンリーフ氏から依頼されるところから始まる。
悪事の発覚におびえ、貧しい生活にも飽き飽きしていた彼は、その依頼を承諾して、氏の用意してくれ快適な客室の船でヨーロッパへ旅立つ・・・
この小説の魅力はなんと言っても、トム・リプリーの人物像にあると思う。
弱くもあり強くもあり、嘘や偽善は数知れず、用意周到のようで全てがその場しのぎ、忍耐強く、決断力もあるが、富と名声への渇望に身をよじり、恵まれた者(ディッキー)への嫉妬と激しい自己憐憫・・・。
ある日、出来心でディッキーの帽子をかぶり、服を身に付け、靴までも履いて鏡の前でディッキーになってみるところは、不気味で暗示的だ。
不意に彼に見咎められ、羞恥心と屈辱感で一杯のトムは、可哀想なくらい哀れだ。
「ニセモノ」 これはリプリー・シリーズのキーワードとなる言葉かも。
彼は荷造りをつづけた。ディッキー・グリーンリーフになりすましているのは、これが最後であることはわかっていた。
トーマス・リプリーにはもどりたくなかったし、取り柄のない人間でいるのもいやだった。また昔の習慣に逆もどりしたくもなかった。みんなから見下され、道化師のふりをしなければ、相手にされないのだ。誰にでもちょっとずつ愛嬌をふりまく以外、自分はなにもできない役に立たない人間だという気持ち、そんな気持ちはもう味わいたくなかった。買った当座でもたいしたことはなかったのに、油のしみがつき、しわの寄った、そんなみすぼらしいスーツを着たくはないように、ほんとうの自分にはもどりたくなかった。スーツケースのうえに置かれたディッキーのブルーと白のストライプのワイシャツに、涙がぽとりと落ちた。 (P261)
必死にすがりついているトムと、のびのびと屈託がなかったディッキー。持たざる者と持てる者。
明日、ミスター・グリーンリーフに会ったとき、ついうっかりつまらないことしゃべってしまうのではないだろうか、マージが運河に転落し、彼が大声で助けをもとめ、水に飛び込んだが、見つからなかったと?みんなといっしょにこそにマージがいるのに、彼は逆上して、その話をぶちまけ、狂人のようにうっかり自分の本心をさらけ出してしまうのではないだろうか? (P350)
追い詰められたこのキモチ、痛いな。
嘘が現実を超えてしまう、恐いな。
トムはそんなことはないけれど、
嘘の手強さは、ウソかホントか本気で忘れてしまうこともある、ということだ。
他人を騙し、自分も騙されることになる。都合のよいことならこれもシアワセかも。
逆に嘘をウソと認識している間は、よい記憶力が必要だ。
痛々しくも図太く嘘をつく人は・・・。