「美しい」をめぐって
『人はなぜ「美しい」がわかるのか』 橋本治 (ちくま新書)
人は幸せなとき「美しい」と思えることが多い。
世の中の人が皆、これは美しいと言っても、悲しみの底にいる人にはそれは輝いて見えず、単にある物に過ぎない。
本書は、人が美を感じるメカニズムについて考察されているのではなく、また万人が認識する「美しさ」について書かれたものでもない。
あくまでその人の心に芽生えた、個人的な「美しい」という心の動きについて書かれたものだ。
いつものとおり、橋本氏の話は核心からはるか遠く、しかし確実に繋がっているようなところから、じわりじわりと進んでくる。
そして核心については意外と、さらりとのたまう。
だから、私は不用意に通り過ぎて、アレッ見逃したかな?とページを行きつ戻りつする・・・なんてこと橋本治を読むとよくある。
人は愛情によって美しさを見出していくとしているが、それはけして濃厚な愛ではないという。
幼い頃、祖母と出掛けたとき、自分が何かをじ~いっと見つめて歩こうとしないと、祖母は急かさずにいてくれて、しばらくして「もういいかい?」と声をかけ、また二人で歩き始めたそうだ。
このことを思い出して、氏曰く
「愛情というのは、介入しないことか・・・・」です。介入せずに保護して、その相手の中に「なにか」が育つのを待つというのが愛情か - と思いました。 (P231)
この言葉は親として考えさせられる。
過剰な介入は依存や癒着を生み、個として成長できない。個として成長できないと自己の感情も感動も育たない。
見守られているという実感がないと、心にゆとりが生まれず心を外に開けない。当然「美しい」を感じる余裕も生まれない。
見守られているという実感と、束縛のない素っ気無い空間こそ、子供の自由な成長には欠かせないものだと思う。
でも、じっと待つということは実際、結構難しいことだなぁ。 心せねばな。
もう一つ、なるほどなと思ったところ
・・・自然界に「危険なもの」はあっても「醜いもの」は存在しないからです。「醜い」は、人間だけ関わるものなのです。「存在に美醜はない」と言って、私は、「人間の存在にだけは美醜がある」と思います。なぜかと言えば、人だけが「自分の存在」を作るからです。 (P94)
人は唯一、自分のありようをコーディネイトできる。それは人間に課せられた罠のようにも思う。
自然のありように「醜い」が存在しないとすれば、人は種々の装いを取り除いていって、初めて本来的な美しさを獲得できるものともいえる。これもまた至難の業だ。
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beautiful という言葉の本当の意味は、ただつくりが好ましいとか綺麗というのとは違うのでしょうね。ちいさな子供や赤ちゃんをみてbeautiful!ってよく西洋人はいうのです。それはきっと、神様の世界の輝きがそのまま表れている、そういう感動の表現なのかもしれません。
自然界に醜いものは存在しない、ということも同じことかもしれないですね。「イヤだ、醜い、きらいだ」そう感じることが多い人は、おそらくその心の中がどこか曇っているのでしょうね。