いつかグリューネヴァルトを
『聖性の絵画 グリューネヴァルトをめぐって』 粟津則雄 (日本文芸社)
グリューネヴァルトの絵画の本質に正面から向き合った一冊。
著者が、絵画を通して、己の思考を生成させていく過程が印象的だった。
ユイスマンス『彼方』において、著者曰く「言葉で見た」というグリューネヴァルトの「キリスト磔刑図」だが、実はそこに至るまで、聖性と自然、信仰、また美しさ醜さについて、衝撃を受けた作品が二つあったという。
一つ目は、ドストエフスキー『白痴』におけるハンス・ホルバインの「キリストの死骸」、二つ目はトーマス・マン『魔の山』における14世紀の木彫りの「ピエタ」で、3つ目がユイスマンス『彼方』のグリューネヴァルト「キリスト磔刑図」だ。
左が「キリストの死骸」右は画像が悪いけれど、14c木彫りの「ピエタ」
「キリストの死骸」は棺おけを横から見たような画面だ。
3つの作品に共通することは、いわゆる信仰の対象としての像という範疇からあまりに遠いということだ。
悲壮美というような、感傷的なものも全くなく、そこにあるのは目を背けたくなるような醜さ、あからさまな死骸だけだ。
まさに『白痴』の登場人物が「あの絵を見ていると、中には信仰をなくす人さえあるかも知れないよ!」と叫ぶほど、
グリューネヴァルトのキリストは、従来の磔刑図に見られるような、どこか審美的要素を拭い切れないキリストではない。
腐乱した肉体、そこにはありのままの死骸・・自然がある。
聖なる形、イメージを越えた上での聖性の発現があるように思うのだが。
グリューネヴァルトは同じような磔刑図が数点ある。中でも一番有名なのは、「イーゼンハイムの祭壇画」の一部をなす磔刑図で、『彼方』で言及される磔刑図とは別のものだ。
実はこの祭壇画は二重の観音開きになっていて、平日は閉じた状態の時に見ることの出来る第一面が「キリスト磔刑図」、祭日は開いて、第二面に「受胎告知」「天使の奏楽」「キリスト誕生」「キリスト復活」、さらに第三面には聖アントニウス(イーゼンハイムの修道院の守護聖人)の祝日に開かれ、「聖アントニウスの誘惑」「聖パウロを訪れる聖アントニウス」が公開されていたということだ。
現在は、ウインターリンデン美術館で別々に展示してあるそうで、一度に見ることが出来るそうだ。
左から、イーゼンハイム祭壇画の中の「キリスト磔刑図」、そのディテール「手」「足」(注:気持ち悪いです)、「キリスト復活」
著者は、第一面の暗さに反して祭日に開かれる第二面のあまりに明るすぎる点に驚きを隠せない。
それはこの修道院が梅毒、丹毒患者の施設であったことも無関係ではない。
日々、肉体の悲惨な症状と苦痛に耐えるしかない患者は、どのような思い出あの無残なキリストを見ていたのか。
そして肉体から解き放たれ復活するキリストは、まさに光そのもの。
この軽みは異常なほど。全く不思議な絵だ。
著者は、実物を見るまでの過程をこう言っている。
思考の限りを尽くして対象に近づいていたつもりが、実は一歩も動くことなく対象をおのれの内面に抱きこんでいるに過ぎないということが起こる。対象の存在と、対象をめぐるおのれの饒舌との間の区別がつかなくなるということが起こる。いや、そればかりではない。あの対話の場がいかに生き生きとした動的な緊張を保っていても、それは対象と出会うための必要な条件ではあっても充分な条件ではない。(P101)
写真で見る絵、パソコンの画面を通してみる絵は自分の内的イメージでしかない。
実際の肌合、存在感、エネルギーは、やはり対面して初めて分かるもの。
・・とはいってもそれが全て可能になるわけではないし、逆に内的イメージを持つことが悪いわけでもない。
それにしても、いつかグリューネヴァルトを見てみたい!
興味のある方はこちらをどうぞ・・
http://www.wga.hu/frames-e.html?/welcome.html
artist indexでG → GRÜNEWALD, Matthias
イーゼンハイムの作品はどれも手の表現がすばらしい。
痙攣する手、搾り出すような苦悩の手・・その粘りつくような表現にとても惹かれる。
“いつかグリューネヴァルトを” に対して1件のコメントがあります。
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>そして、すぐれた芸術家は理解を超える作品を生み出して、
新しい価値や、新しい思考を私たちに与えるものですね。
いい言葉ですね・・・
いいものは理解を超えている。
ほんとうです。
逆にいうと、理解できるものは、
すでに自分の中に共通項が存在していて、
ある意味、新鮮味がないのかもしれません。
ボクが、理解を超えて参ったなと感じたのは、
思いつくままで、エゴン・シーレと、田中一村かな。
こういう美とは出会ったことなかったと思いました。
そして始めは気味悪い感じがするんですね。