徒 然 日 記

05/1/30(日)

『中原道夫詩集』新・現代詩文庫1(土曜美術社出版販売)読了。
以前、ある作家が新聞にこのようなこと書いていた。
「昨今、離婚したといえば離婚の本を書き、病気をしたと言えば闘病記、介護をすれば介護記と、素人さんの書くものばかりが書店に溢れている」と・・
『中原道夫詩集』を読み終わって、本当の詩人、玄人と言っても良い。とはこういうものかと思った。

中原氏にも、妻・幸枝さんが交通事故に遭い、さらに入院先の医療ミスによって亡くなるという、人生の一大転機があった。
そのことによって詩は劇的に変化し、以降の心の変遷が詩に如実に表れている。
しかし、特筆すべきは、生々しい事実としての死から、抽象としての死への変化だ。素人との違いはここだ。
個別的な死が、普遍的な死へと次第に純化されてくる。詩人は言葉でそれを私達に示している。
そして、その言葉はけして難解な言葉ではない。「詩を大衆のもとへ返す」ことを掲げている中原氏は、「分かりやすい詩」を良しとし、不毛なレトリックを明快に切り捨てている。
これは詩を書く人にとって、真の試金石であると思った。シンプルな言葉と言葉の空間を埋める「何か」がなければならないからだ。
ポロックが偶然を使って偶然以上の何かを創造したように、詩人は言葉を使って言葉以上の何かを作るものなのではないかと思った。

      踵

  踏みつけられ、撥ねとばされ、蹴ちらかされ
  磨りきれた傷を残して
  通勤ラッシュのメトロのホームに
  切り落とされたサラリーマンの足の一部が落ちていた

  ・・(中略)・・

  ぼくは無性に切なくなって
  磨きれたゴムの塊をそっとポケットに仕舞う
  哀しいぼく自身を拾うように

  まもなく三番ホームに電車が入ってくる
  通勤客が降りてくる
  いつ切り落とされるか分からぬ靴を履いて
                                   詩集『傘のないぼくに』より 
妻を亡くしてから3年過ぎた時に上梓された詩集。
何という哀しい詩だろう。寂寥感が束になってのしかかってくるような苦しさだ。
もはや激情はなく、あるのは深い哀しみと疲労、希薄な生と虚しさ・・

      ぶら下がり

  この世に生を受けたとき
  まず、母の乳房に
  ぶら下がった

  ・・(中略)・・

  けれど、いつの日からか
  ぼくにはぶら下がれるものがなくなった
  ぶら下がれるものは空しさだけになり
  やがて、孤独にぶら下がることになり
  やがて、侘びしさにぶら下がることになり
  やがて、意識さえしていなかった生に
  執拗なまでにぶら下がることになり
    ・・・                          詩集『傘のないぼくに』より

人はいつも何かにすがって生きていくのだろうか?
詩中でも「斯くして生きることはぶら下がることであるとの哲学を持った」とあった。
人は先ず、処世術として何かにぶら下がるんだろう。そう、処世術として何かにぶら下がっている内は、まだいい。ぶら下がりの旨味もあるだろう。
しかし、この世に未練や喜びや楽しみが無くなったら、ぶら下がる必要はないのではないか。
それでも人は、ぶら下がる「何か」を見つけたいのだろうか?自分の生にぶら下がるなんて、ウロボロスみたいだ。
逆に、そうまでして「生きる」のが人間なのか・・。

中原氏は、前妻の死後五年で再婚する。言葉に出して吐き出してしまう、この詩人の強靱さに畏敬を禁じ得ない。


05/1/28(金)

今週、横浜美術館で開催の『マルセル・デュシャンと20世紀美術』を見てきた。
もとより、熟視する事に意味のない『泉』を確認。オリジナルの希少性のみ・・。
デュシャンの署名のインパクトは歴史に残る。それは、パンドラの筺を開けてしまったとも言える様な気がするが、現代美術の展開には間違いない。

キュビスムに運動、時間を取り入れた、『階段を降りる裸体No.2』は面白かった。以前読んだ『見る脳・描く脳』岩田誠(東京大学出版会)で、視覚はそれぞれ機能(色彩、形、動き)が独立しているということを、優れた芸術家は科学者に先駆けて発見していた。・・という内容を思い出す。
デュシャンに続く作家たちも、多数展示されてあったが、あまり現代美術に興味の無い私はふ〜んと、流す。
が、見てしまった・・好きな方はごめんさい。うわっ、森村泰昌!この人の作品って、カタツムリと同じくらい気持ち悪くて、大嫌い。

見ることが好きな私は、熟視する芸術ではない現代美術はちょっと馴染めない。
またデュシャンが言語に多分に依存していることも、改めて強く感じた。
展示されている作品は既に歴史的存在といえる。現代美術と言われるものの今は、どうなっているのだろう?と思う。
今年の秋、川俣正氏がディレクターに就任した「横浜トリエンナーレ」が開催される予定だ。足を運んでみようかな。

「マルセル・デュシャンと20世紀美術」→こちらです。


05/1/26(水)

『鑑賞・現代短歌七 塚本邦雄』坂井修一(本阿弥書店)読了。
小説から塚本邦雄の世界に入ったこともあって、なんと歌集を読んだことがない。
そんなわけで、第一歌集から年代を追って収録されている本書は、大まかながら足跡を把握できる有り難い一冊となった。

塚本の愛はしばしば同性に向かう。先に読んだ森茉莉の『枯葉の寝床』などは、どこか外国映画の借り物臭くて頂けなかった。むしろ次に引く塚本の歌は、たった一首で小説を凌ぐと思った。
短歌の凝縮度、純度の高さ実感した。

・湖水あふるるごとき音して隣室の青年が春髪あらひゐる    『装飾樂句』

湖水、音、青年、春、髪、美しい言葉が玉のように並び、煌めくような若々しさと、凛とした中にも柔らかな余韻が残る。春夜、作者の想像が夢のように広がる。
解説によると、初句七音は塚本の得意技で、二つ以上の文節を封じ込めることで、たっぷりした意味性と律の重みをつけているとの事。

以下好きな歌と感想をいくつか。

・イカルスの遠き空を堕ちつつ向日葵の蒼蒼として瞠(みひら)くまなこ    『日本人靈歌』

遙か上空では白い翼が溶けたイカルスの落下。地上では今が盛りの向日葵が生を謳歌している。健全なる傍観者。その隔絶感がやりきれない。冴えた色のコントラストが、強い印象を与える歌だ。

・體育館まひる吊輪の二つの眼盲ひて絢爛たる不在あり     『緑色研究』

若い肉体がつい先ほどまで躍動感に満ちてそこにはあったのだろうか。今は、しんと静まり返った体育館で二つの輪が虚ろに存在するのみ。
絢爛たる不在という言葉から、一瞬、私は絢爛たる肉体の残像を見たような気がする。

・馬を洗はば馬のたましい冱(さ)ゆるまで人戀はば人あやむるこころ     『感幻樂』

最も有名な歌の一つ。塚本の歌にしては、ストレートに響く一首だと思う。どんなことでも突き詰める、生真面目な一面を感じる。命がけの恋をする人なのだろう。自分と相手とそれぞれが熱く悦び、深く傷つくことだろう・・。

・ほほえみに肖(に)てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺     『感幻樂』

この歌が一番好きだ。清浄な炎と黒塗りのピアノの幻想的な交わり。
解説に芥川の『地獄変』、川端の『雪国』をあげているのが面白い。共に最後は一種残酷で清らかな炎に包まれる小説だ。
最期の瞬間も、俗にまみれず、清らかに高貴であれというのだろうか。ピアノとは自分のことであろうか、自分の追い求める美の世界、短歌の世界のことであろうか。
燃えさかるピアノを前にして、作者は厳然と佇み、手向けの眼差しを放つ。

構成は「秀歌百首鑑賞」がメインとなっており、一首ごとに編者の解説、類似の主題を含む歌がいくつか紹介されていている。
秀歌百首は、特に優れたものが多く、前衛と呼ばれた人の斬新で鋭角な感性が光る。さらに現実を見据え、短歌の現状を憂いながらも、自己の美意識はぶれることがない。あくまで短歌に拘る強靱な精神に、ただただ驚くのみだった。


『名画を読み解くアトリビュート』木村三郎(淡交社)読了。
「アトリビュートって何だろう?」からはじまり、「基本のアトリビュート58」を示す。
アトリビュート=持物は、一種の約束事。それを見たら誰でも何が描かれているのか分かるような、目印のことだ。
例えば、バラはビーナスのアトリビュートであるから、複数の婦人の中で一人バラを持っていたら、それは彼女がビーナスであることを示す。また、棕櫚が描かれている人物がいれば、それは殉教者を示す。
ここに、アポロニアという女性の絵がある。棕櫚と「やっとこ」が描かれている。棕櫚があるので、殉教者の一人と分かる。実は彼女は異教に染まらなかった為に、やっとこで歯を抜かれてしまった聖女なのだ。よく見るとやっとこには小さな歯が描かれていることがある。彼女は歯医者さんの守護神でもあるそうだ。

約束事を知ることによって、絵画をより豊かに鑑賞する手助けになることは確かだ。本書は図像の基本的な意味を知るための、親しみやすい入門書だ。


05/1/22(土)

シクラメンをUP。毎回課題は残るのだが、兎に角、UP出来る状態にまで持ってこられてよかった。
いつもより大きめだったので、描くのにも時間がかかった。これ以上は嫌々描いてしまいそう。
花を一本、集中的にもう一度描いてみようかとも思う・・
シクラメンは花もちが良く有り難い。また葉の形も、ほぼ一ヶ月間変わらず保ってくれて、感謝。
ただ、描いている時、成長が進まないよう暖房を入れなかったので、寒かったです (>_<)ブルッ


05/1/21(金)

『薔薇くい姫 枯葉の寝床』森茉莉(講談社文芸文庫)読了。
表題作の他、『日曜日には僕は行かない』を含む3篇収録。

『薔薇くい姫』は、世間から子供扱いされる自分を虚実織り交ぜ、戯画風にとらえた身辺もの。
父の庇護もとお姫様のように育った魔利(マリア)は、世間や他人、兄妹にさえ違和感を持ち続ける。
世間から切り離された存在としての自己に、魔利は怒りさえ感じるのだが、その描写は読者には滑稽に写り、自虐的だ。

『枯葉の寝床』『日曜日には僕は行かない』は、美少年を中心とした同性愛もの。
あとがきによると、男色とは関わりなくただ「優婉」な恋愛を描きたかったとある。なるほど露骨な性描写はなく、むしろ息詰まるような濃密な心情の絡み合いだ。
森氏お気に入りの仏男優を、空想の世界で遊ばせて出来たのが、一連の男同士の恋愛小説だという。
読者より、著者が一番楽しかったのだろうと思われる小説だ。


05/1/16(日)

先週の金曜日、東京ステーションギャラリーで開催の『国芳・暁斎なんでもこいッ展だィ』を見てきた。 国芳・暁斎のこれだけまとまった作品を見るのは初めてだったので、本当に楽しみにして行った。

会場に入るやいなや、横幅17メートルの新富座の緞帳「新富座妖怪引幕」が目に飛び込む。
作品解説に、暁斎がお酒を飲みながら4時間で仕上げたとある。凄すぎるの一言。浮世絵では煩辱とも言える緻密な図柄だが、これは正に大胆不敵、剛毅にして色気と妖気。圧巻だ。

国芳の有名な「宮本武蔵と巨鯨」「荷宝蔵壁のむだ書」ネコ好きの国芳ならではの「其まま地口猫飼好五十三疋」など、憧れの作品がならび感激だ。

個々の作品の素晴らしさにくわえて、東京ステーションギャラリーがレトロ感があって落ち着いて、すこぶる魅力的だった。壁がレンガの剥き出しになっていて、それが浮世絵と良く合っていておしゃれだ。

構成は役者絵、美人画等で分け、国芳と暁斎を混ぜた形で展示してある。比較したり、個性を楽しんだり。まったく贅沢な気持ちにさせる内容で、久しぶりに大満足の企画展でした。


05/1/14(金)

『ルネッサンスの光と闇』高階秀爾(中公文庫)読了。
副題に「芸術と精神風土」とあり、現在至宝といわれている作品は、その時代の思想、宗教、流行、関わった人間等、実に様々な影響のもとに生み出されていたことが分かる。
個々の作品は、個人主義や価値観が多様化された現在に比較して、より大きな時代の流れの中の存在として位置づけられる。それは逆に、作品からも時代が読めるということだ。

本書の中核をなすのは、最もフィレンツェ的な画家といえるボッティチェルリ。
代表作「春」「ヴィーナスの誕生」の主題については元より、三美神「美、貞節、愛」やキューピッドについて、双方に描かれているヴィーナスの違いや意味、さらに二作品の関係も詳細に考察されている。

時代の気質としてメランコリア、「虚飾の焼却」を行った狂信的ともいえるサヴォナローラへの言及も、前者は後のミケランジェロやロダンにまで続く系譜、後者はボッティチェルリへの影響が興味をひく。それらは陰鬱な調べとなって常にルネッサンスの闇の部分を担っているように思える。

また、ベルリーニの「神々の祝祭」を巡るティツィアーノの加筆の真相は、画家と作品依頼者との深い関係が伺えた。
作品は、為政者、権力者である依頼者からの注文によって描かれる。画家は必ずしも自分が描きたいものを描いていたわけではない。想像以上に依頼者側が作品の主題、構図にいたるまで実に細かく画家に提言していることに驚いた。

他に、ルカ・シニョレルリの力強い壁画、マンテーニャの「パルナッソス」についても多くページを割いて考察しており、興味深かった。


05/1/6(木)

『日本語千里眼』明石散人(講談社文庫)読了。
「故事、格言、諺、喩えの解釈は、事典類の説明と違っていても、より面白く説得力のある解釈ができれば、それはもう立派な新説なのである。」と明石氏。
知識を単にストックしていても意味がない、自らの自由な発想でそれらを結びつけ、独自の新しい風景を作り、その過程を楽しもうという。
諺では、「月とスッポン」「蝦で鯛を釣る」などを例にあげ、ユニークな解釈が展開される。

また、よく知られている言葉も語源を探っていくと思わぬ真実があり、現在の誤用や意味の変遷を明らかにしている。
面白かったのは「侘・寂」について。
よく対で言われる言葉だが、実は「幽玄・侘・寂」の三点セットでなければならず、それらは「発生・経過・終焉」に対応するという。
固定化する前のあやうい誕生的な美が幽玄、固定化の後の時間の経過、使い込んだ器や風雪に曝された建物が侘、それらが朽ちてしまったものが寂で、寂はそこにないものに対してかつての経過や誕生に思いをはせる事だそうだ。

さらに、「イラク戦争」「江戸の不便至上主義」「パクリとオマージュ」など独自の切り口で説いていき興味は尽きない。
明石流に感心したあとは、「自分流解釈のすすめ」といきたいものだ。


05/1/1(土)

今日から2005年。よいお天気で嬉しいかぎり。今年はどんな年になるのだろう。
読みたい本、描きたい花、見たい展覧会、いつも興味は同じようなものに向かうけれど、それが少しずつでも自分に蓄積されればいいと思っています。
あれこれできるほど器用な人間じゃないので、広いより深くありたいです。

今年は期待している展覧会がいくつか。まずは12月に行けなかった東京ステーションギャラリーの「国芳・暁斎展」を見に行きたいですね。

相変わらずのサイトになると思いますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

・東京ステーションギャラリーのサイトはこちらです。


2004/12月 2月