徒 然 日 記

04/8/31(火)

『動物と人間の世界認識』日高敏隆(筑摩書房)読了。
ドイツのユクスキュルという人の「環世界」という概念が紹介されており、大変興味深かった。
客観的な環境というものは存在せず、個々の動物が主体となって意味を与えた世界のみが、その主体にとっての環境ということで、主体が違えば皆違った世界になる。それをユクスキュルは「環世界」と呼んだ。
そうか〜。なんか目から鱗のような感じがした。私達が感じている環境は、ネコやモンシロチョウが知覚している環境とは全く別物なんだ。

個々の主体が認識している環世界は、それぞれが自分にとって意味あるものをピックアップしているわけだから、各々のイリュージョンによるものだそうだ。
著者は、「人間も人間以外の動物も、イリュージョンによってしか世界を認識し構築し得ない。」「人間以外の動物の持つイリュージョンは、知覚の枠によって限定されているようである。けれど人間は知覚の枠を超えて理論的にイリュージョンを構築できる。」と述べている。

地球上の人間、昆虫、ネコ・・それぞれの種が、同じようにそれぞれ固有のイリュージョンを持っていたのかと思うと、何か壮大な感じがする。客観的環境の急激な変化に、種のイリュージョンが追いつかなくなった種が、滅んでしまうのかナァ?
理論的にイリュージョンをつくる・・そうか、宗教や思想の世界観というようなものは、そう言うことだったのか。だから理論的にイリュージョンを構築できる人間だけが、時代や、民族によって異なったイリュージョンをもつことが出来るわけだ。

著者は、古典というものもその当時の人々のイリュージョンによって構築していた環世界を示すと述べていた。
そう言う観点から『ギリシア神話』や『源氏物語』を思い浮かべるとナルホドと思う。


04/8/29(日)

『風流線』『續風流線』泉鏡花(岩波書店)読了。
「鏡花 小説・戯曲選」第二巻に収録。明治36年(1903)から翌年10月まで、2回に分けて新聞に連載された小説。
連載の始まる5ヶ月前、当時16歳の一校生、藤村操が華厳の滝で投身自殺を図った。厭世観にさいなまれてのエリートの死は、同年代の若者に強い衝撃を与え、連鎖反応的に自殺者を産んだようだ。
『風流線』の主人公の一人、村岡不二太のモデルがこの藤村操で、小説では自殺を図ったが死にきれず、加賀の山中、鞍ヶ嶽に隠れ住んでいたことになっている。そこへ恋人である小松原龍子が尋ねて行くところから話は始まる・・。
時を同じくして、鉄道技師水上規矩夫と風流組と称する工夫の一団は、手取川沿いに陣取り、北陸本線敷設事業を進めていた。
また、当地で生き神様と崇められていた慈善事業家の巨山五太夫は、湖の壮麗な浮城、芙蓉館に正妻の美樹子と暮らしていた。しかし美樹子は夫の慈善家とは裏腹の正体を知り、心中穏やかではなかった・・。
主要人物を中心に人間関係が網の目のようで、読み進んで、ああそうかと納得していく。

おしなべて登場人物が悪人だ。巨悪の巨山、生きているでもなく、死んでいるでもない村岡・龍子、風流組の荒くれ者達、一種魅力的な大小さまざまな悪人が登場する小説とも言える。
鏡花の郷里金沢が舞台だが、郷里に対する屈折した思いも垣間見える。

鏡花の小説は、時間や空間が入り乱れ、遠近法にもとらわれないから、時々話の筋が見えなくなる(泣)・・でも深山幽谷に映える龍子の凄さ、芙蓉館の絶世の美女、喜美子と若い幸之助との細やかな情、湖の湿り気を感じながら、艶やかな彩りを目に浮かべるだけで楽しい。・・だから時々鏡花が読みたくなる・・


04/8/27(金)

『私の嫌いな10の言葉』中島義道(新潮社)読了。
哲学者である著者が文字通り、10の嫌いな言葉をあげ、それぞれ何故嫌いなのかを述べている。
例えば、「相手の気持ちを考えろよ!」「おまえのためを思って言っているんだぞ!」「一度頭を下げれば済む事じゃないか!」「弁解するな!」「みんなが厭な気分になるじゃないか!」等々。
いずれの言葉もよく耳にする言葉だ。だが著者は、その言葉を発する人の、マジョリティの、世間の、欺瞞と鈍感さを指摘する。それは全ての人間の感受性が同一であるという公理の元に発せられる、内容不在の定型句であるとしている。他人の理論的思考は受け入れられるが、他人の感受性を受け入れることは出来ないとし、感受性のエゴイストたれと述べている。

「京都のぶぶづけ」に関するところは面白いと思った。言葉の裏を読む代表みたいなものだが、言葉を信じない文化の到達点でむしろ野蛮な文化だと見なしている。
思うに著者は、ホンネだ、建前だ、腹芸だといったことによって言葉本来の機能が不能化し、話の風通しが悪くなるのが大嫌いなのだ。それは言葉を否定することにつながるからだ。

さらに、聞くにたる「弁解」なら徹底的に聞くべきだとも言っている。これは、ちょっとキツイが・・
なぜなら人は生命、身体、家族、所有物、名誉を守るために言葉を駆使して切り抜けなければならないから。現代人は自己防衛の手段として言葉の技術を磨く必要があるという。

「沈黙は金」とか「察する」とか「場の空気を読む」とかで解決できる問題はいいが、解決できない問題は、言葉を尽くし、理論的に対話していかなくてはならないからだ。
著者は、日本の「それとは分からないほど自然に」や「察する」を美化し、言葉を排除する傾向は、それを正確に使って意思表示をする人びとを毛嫌いし、やがて彼らを排除するという凄まじい暴力を産むと警告している。

読み終わって、とても共感できた。共感する人は存外多いと思う。
でも大抵の人は、著者に反して、「場」を大切にし、その場の空気を読む。私もそうだ。
必要とあらば、その場で話されていることに全く興味がなく面白くなくても、何とかガマンして適当に話を合わせる。よほど現実的な不利益を被らない限り。
いちいち突っかかっていては暮らしていけない。結局どこで折り合いを付けるかが、その人の生き方ではないだろうか。
言葉というのは、社会とそこに住む人々を端的に表すものだと思った。自分自身の考え方や自分が発する言葉について、反省も含めて、再認識させられた。


04/8/24(火)

日曜日、池袋東武で開催されている『江戸川乱歩と大衆の20世紀展』に行ってきた。
デパートでの展示は、乱歩の原稿や初版本、資料、手紙等々。さらに昭和初期から30年代の風俗や玩具、貸本屋の再現など、大衆文化とともにあった乱歩が紹介されていた。

展示で一番見たかったのが、有名な「貼雑年譜」(はりまぜねんぷ)だ。乱歩自身による、乱歩のコレクションとでもいうもの。B4大の紙を束ねたものに、幼少期から晩年に至るまでの自分に関するあらゆるものがスックラップされている。スケッチ、草稿、家の間取り図、自分のことが載っている新聞記事、雑誌記事、広告、出演したテレビ欄、兎に角、凄まじい量なのだ。乱歩研究者の出る幕がないくらいに、これを見れば一目瞭然、オドロキの内容だ。

さらに「自著目録や自著箱」自著箱は、本の大きさに作った木箱に自著がきれいに収まっているもので、棚に引き出しのように整然と並べられ、箱のそれぞれには番号と作品名が書いた紙が丁寧に貼ってある。整理魔の異名を持つ乱歩の面目躍如。

あと、オッと目を引いたのが、月岡芳年の「残酷絵」と呼ばれる浮世絵。血糊もぬれぬれと瀕死の者、討ち取った生首を掲げる輩を描いた浮世絵は、生々しさより洗練された美しさが感じられ、構図や色合いも完成度が高く、大いに惹かれた。
私が好きな乱歩の初期の短編は、こういうぎりぎりの美しさ、妖しさがあった。正直言って大袈裟なタイトルを掲げた後半の作品はあまり興味がない・・。

しかし、何と言っても最大の目玉は、旧乱歩邸にある土蔵が一般公開されることだ。幻影城ともいわれ、乱歩は自宅の真っ暗な土蔵の中で、蝋燭の灯りで原稿を書いている・・などとまことしやかに言われていたあの土蔵だ。
見学に待ち時間がかなりあって、やっとこ見ることが出来たと言う感じ。

公開と言っても二階建ての土蔵全てに入れるわけではない。入り口から少し入ったところで、ガラス版で仕切られており、そこからガラス越しに内部を見るだけなのだが・・。
蔵書を眺めると、谷崎全集、チェーホフ全集、斉藤茂吉、アイスキュロス、プルーストの『失われた時を求めて』、谷崎の『細雪』・・(あとは忘れた)が見つけられ、また男色関係、洋書も沢山あった。
ぐるりと本に囲まれて、アイデアやトリックがひらめいたり、資料を探したりする乱歩の姿が想像できるよう。正直、公開期間も少ないので、この場所に立つことが出来てとてもラッキーだった。

帰り際に、幻影城の鼠漆喰で仕上げられた外壁に触れてみる・・ヒンヤリと堅い充実感が伝わってきた。


04/8/21(土)

久しぶりに、植物画をUP。
園芸店で見つけたユーカリ。ユーカリとはフトモモ科ユーカリ属の総称。種類は数百種類もあり、花の色や形も様々だ。
私が描いたものは赤いCapが目を引いた。硬くて、まるで作り物のよう。葉は表裏の色の違いは余りなく、若干の厚みがある。Capが取れて下から雄しべが立ち上がってくるのをじっと見ていると、植物ってよく動くなと思う。

皆、足があってそこから歩いていくわけじゃないけれど、デッサンが追いつかないほど速く花が光へ向くようす、蔓がクルクルッと絡みつくようす、萎れた葉がグングン水を吸い上げるようすは、休み無く変化して生きているのを確信させる。
花の刻々と変化する形態の面白さ、美しさを、紙の上に封じ込められたら・・そう思いながら、楽しみつつ、苦労しつつ描いている。

そう言えば、アテネオリンピックのオリーブの冠とブーケがとてもいい。古代の勇者を彷彿させて、メダリストがますます輝かしく立派に見えるなぁ。


04/8/20(金)

『偶人館の殺人』高橋克彦(角川文庫)読了。
人形のことを古くは偶人と言ったそうだ。偶人館と呼ばれる奇妙な館、からくり人形、隠れキリシタン、豪商の隠し金と何やら怪しく好奇心をそそる内容だ。
国際的デザイナーの矢的遙は、からくり展のポスターを池上佐和子から依頼される。後日二人は、からくり人形マニアの加島大治のコレクションを見せてもらうことになったが、そこで「べんきちはゆるさないぞ」と書かれた脅迫文を見つける・・。
実在した江戸のからくり師・大野弁吉にまつわる事件の真相とは?
矢的遙=ヤマト・ハーカーだったり、彼がやたら「ことわざ」好きだったり、百合亜・露麻夫というロマネスクなネーミングの双子の兄妹が登場したりと、肩肘張らずに楽しく読めた。


04/8/15(日)

恒例のキャンプも無事終了。バーベキューやら近くの温泉やら。結婚以来主人の趣味のキャンプに付き合っているわけだが、毎年少しずつ変化しているのが面白い。
特に子供と行くようになってからは、子供の成長具合がよくわかる。去年はこうだったけど、今年はこうだ、と変化が実に顕著だ。でも来年は中学なのでどうなることか。
小学校6年間ずっと一緒にキャンプに行ったことなるけれど、子供はどう思っているのかな?楽しい思い出になったのかな?きっと親の方がいい思い出をもらったのだろうな。

『残照』小杉健治(光文社文庫)読了。
久しぶりに小杉健治を読んだ。法廷ものと、時代もののイメージがあったが、これはそのどちらでもない。

戦後の混乱と貧困の中で出会った男たち。老境に入った現在も心の許せる仲間としてつき合いがある。しかし各々は、家族に疎まれたり、天涯孤独であったり、病身であったりする。そんな折り仲間の一人が病死する。彼は戦後の腐敗した日本を作った張本人として、6人の名をあげその抹殺を計画していた。残った仲間は遺志を継ぐ決意を固める・・

社会派の著者だけあって、過去(戦後)から現在に至る社会の矛盾、闇を問うている。
戦争末期に国民を欺き保身にはしり、私利私欲を重ねた一部の権力者、結局彼らは権力の中枢となっていった。そのことが、様々な矛盾を産み無責任な国家の土壌を培っていったのではないか。家族の崩壊、いじめ、ひきこもり、ストーカー、警察の腐敗等々、現在起きていることも元凶はそこにあるのではないか。−これが主人公の老人たちの共通の認識だ。

プロローグで、いじめにあった少年がどこでリンクしてくるのか読んでいて気になった。いつもながら人物描写に、著者の人生に対しての真摯な姿勢が映し出されていて爽やかだ。この人の本は、どこか折り目正しさが感じらるようで気持ちがいい。

『大江戸浮世絵暮らし』高橋克彦(角川文庫)読了。
浮世絵を中心とした高橋氏の趣味を集めたシリーズ「高橋克彦迷宮コレクション」の中の一つ。
浮世絵は芸術じゃない。とは氏が言い続けていること。もちろん芸術的に優れた作品はあるけれど、それだけじゃない、逆にそういう観点だけで判断してしまうことで、見落としてしまったものの、なんと多いことか、という嘆き。
文中の“「芸術」という文字をつけ加えられてしまうと、たいがいのメディアが死んでいくのです。死んでいくというのは、ライブの状態から離れてしまって、そういう価値が定まることによって多くの人が関心を失っていくという意味です。”という言葉は重みがある。

浮世絵は日用品であり、ゲームソフトであり、情報手段。本書は江戸庶民の機知とウイット、遊び心満載の浮世絵が、カラーで多数紹介されており、とにかく面白い。額に入れて飾るような美しい浮世絵とは、一味も二味も違ったワクワク感がそこにはある。浮世絵の楽しみ方が広がる、そんな魅力的な一冊。


04/8/5(水)

猛暑でいつもより長い7月が終わり、8月になったと思ったらあっという間に5日で。

『メルヒェン集 盗賊の森の一夜』ハウフ(岩波文庫)池田香代子訳読了。
シュペッサルトの森の旅籠に泊まり合わせた、かざり職人、鍛冶職人、馬方、学生たちは盗賊の影に脅えて朝まで起きていることにする。眠気覚ましに一人ずつ面白い話をすることになった・・。
地の物語の中で語られるお話の数々。どちらの物語も楽しめる。
メルヒェンといっても幻想的な妖精ものではなく、どちらかといえば教訓的たとえ話のような感じがした。
夭折したハウフの生きた時代は「ビーダーマイアー時代」(平穏実直だが覇気に欠ける時代)と呼ばれるそうだ。時代とこの作品について書かれた巻末の訳者解説がとても興味深かった。

『日蝕』平野啓一郎(新潮社)読了。
千四百八十二年の初夏、巴黎(パリ)大学で神学を学ぶ私は、異教徒の哲学書とりわけ『ヘルメス選集』を求めて里昂(リヨン)へと向った。
そこで出会った威厳に満ちた錬金術師ピエェル・デュファイ、堕落した司教、無能な異端審問官、若き神学者である私は懊悩し、さらに奇跡的な体験をすることになる。
歳を経た私が、かの地で起きたことを回想するといった形。

内容はキリスト教、トマス主義、異端審問、錬金術、アンドロギュノス、奇跡の重厚なアラベスク。古典のような文体と難解な漢字も作品の重要な要素として、馥郁たる古色をかもし出している。
私自身は、キリスト教のことも、トマス主義のことも解らないが、後半アンドロギュノスが出現してからは俄然面白くなった。傷つき腐乱した肉体から、かぐわしい香りが漂う辺りは、ユイスマンスの『腐爛の華』を連想させた。 また処刑のシーンは、荒唐無稽ではあるけれど、高揚感があった。
この作家が「今」を書くとどういう風に書くのかなと、とても興味を持った。


7月 9月