徒 然 日 記

04/2/29(日)

『ひまわりの祝祭』藤原伊織(講談社)読了。
ゴッホのアルルの八枚目の「ひまわり」は存在するのか? その存在が確認されれば美術界が震撼し、神話が一つ生まれる。名画を巡る人間達の愛とエゴ、欲望。といったところでしょうか。
藤原伊織は、『テロリストのパラソル』があまりに良かったので、ついつい比べてしまいますね。初期にあれだけの作品を出すと後が大変・・。

『悪意』東野圭吾(講談社文庫)読了。
素晴らしく面白かった。先月読んだ『白夜行』もよかったが、この作品も後半は終わってしまうのが惜しいくらいの気持ちと結末が知りたい気持ちで、あちらを立てればこちらが立たず状態で参りましたね。
人気作家の日高邦彦が、自宅で殺された。妻の理恵と幼なじみの野々口修が第一発見者。現場に赴いた刑事は、偶然野々口の知り合いであった加賀恭一郎。 自らも子供向けに小説を書いている野々口は、日高の殺人事件と遭遇したことから事件の手記を書き始める。
野々口の手記、加賀の記録、と交互に進む中で早い段階で犯人が分かる。しかし犯人は「動機」だけはいっこうに明かさない。加賀の「動機」探しが始まる・・。
表題の「悪意」が地下水脈のように流れているのが恐ろしい。また何と言っても著者のトリックに次ぐトリック、読者を翻弄することの上手さに脱帽です。

今年に入ってから読み始めた作家なので、UPした50音順にも載っていませんが、今年は日記にぞくぞく登場の予感。でもこういうストーリーの面白いものばかり読むと、お堅い本が読めなくなっちゃいそうでコワイなぁ。


04/2/28(土)

以前から気になっていた横浜市歴史博物館へ。
今回の企画展は「製造元祖 横浜風琴(オルガン)洋琴(ビアノ)ものがたり」で、大変興味深く見ることが出来ました。
パンフレットを読むと、横浜と西洋楽器の関係は、ペリーが横浜に上陸した際に軍楽隊が演奏したことから始まり、以降1945年まで横浜で西洋楽器が製造されていたそうです。
展示は、1880年代あたりに製造されたピアノ、オルガンを始め、風俗を表した浮世絵、小学校唱歌集など、きめ細かいもので、一つ一つ楽しめた。また今日は、当時のピアノでミニコンサートもありラッキーでした。
特に面白いと思ったのは、「紙腔琴(しこうきん)」という楽器。箱に穴が空いたロール状の紙が左右に渡してあり、その穴がオルゴールの爪のような役割をしているもので、曲ごとに変えるようになっており、ハンドルでグルグル回しながら、ふいごで空気を送り、音を出す・・。(;^_^Aフキフキ
(音楽苦手なので、上手く説明できません〜)兎に角、漆の箱で「音の玉手箱」という感じ。

正面に天使が施され、両側には蝋燭台も付いている美しいピアノ、木目の綺麗なオルガン。横浜製の楽器たちは、様々な場所で、どんな人たちの間で時を刻んできたのだろう・・。そんなノスタルジックな思いを抱かせてくれる素敵な企画展でした。


04/2/27(金)

ここ1ヶ月くらい、読書記録に「作家別50音順」を加える作業をしていた。もともと読書記録は、2000年あたりから備忘録として作り始めた。それをHPを立ち上げた時にコンテンツとしてUPしたわけで・・。

今年の2月は記録的に暖かいらしい。なるほど朝タイマーで暖房をつけたこともないし、一日中暖房を付けっぱなしにした日もない。そう言えば、“霜柱”なんてのも近年見てないな〜。
霜と言えば、百人一首の「心当てに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花」
霜の色と形、白菊の色と形が混然となったこの歌、好きだけどなぁ。


04/2/22(日)

先日、横浜美術館で開催された「東山魁夷展」を見てきた。平日にもかかわらず館外で一時間弱待たされた。感想は、やっぱり私には合わないナァという思いを新たにした、ということ。何点か鑑賞しているうちにどうして「好きじゃない」かがわかってきた。ざらざらした表面と粉が吹いたように上から掛けられた白、曖昧なエッジ・・それがどうしても好きになれない。まぁ、好き嫌いの範疇なので、魁夷のファンの方ごめんなさい。

『つばめの来る日』橋本治(角川文庫)読了。
展覧会の一時間待ちも、本さえあれば何のその、本が読める状態ならば時間は無駄にならない。
9つの話からなる短編集。主人公はひ弱さゆえにボクシングを始めた少年、息子と初めて潮干狩りに出かける男、夜空を眺める少年、同性愛の中年男性、それぞれ何処か切なげで儚い男性ばかりだ。
特に印象に残ったのは、「あなたは他者と向き合えない」という女の呪縛にあった男が、次第に「向き合いたい他者」との関係を成り立たせるためだけに時間を費やせばよいという心理に目覚める『カーテン』
文中の好きな箇所をちょっと引用・・“時々は、カーテンの向こうから、煌々と輝く月の光がさし込んで来て、明かりを消したベッドの中でそれを見ると、なぜ世の中に「孤独」とか「寂しい」いう言葉があるのか分からなくなる。「美しい」という言葉が「孤独」とか「寂しい」という言葉を喚起する−というのなら分かるが” 何だかシンシンときます。


04/2/20(金)

アマリリスUP。やっぱり大きな花を描くのは気持ちがいい。結構花もちも良かったので助かった。
反省としては、もっと力強い感じが出せた方が良かったと思うこと。それと実際の絵はもう少し上下に余白があるが、デジカメの取り方が悪く、ちょっと切れた感じになってしまったこと。等。

『天使たちの饗宴 澁澤龍彦同時代芸術論集』谷川渥(河出書房新社)読了。
1960年〜1987年までの二十数年間、氏の周りに存在した画家、作家、舞踏家との関わりを言葉にしたもの。
美術(金子國義、池田満寿夫等)人形(四谷シモン)演劇(唐十郎)映画(大島渚)舞踏(土方巽) に分類されていて、それぞれの文章はけして堅苦しくないが、独特な明快さがあり惹かれる。
中でも「密室の画家」の一文は澁澤氏の偏愛の根底を成す文章で印象に残った。
曰く、「密室」とは「目まぐるしく変わる時代の絵画思潮の交替に左右されず、おのれの気質に溺れるがままに、みずからの個性という密室の中に閉じこもった芸術家の孤独」とし、そういった画家は、この孤独をけして不幸とは感じず、制作の苦闘もそれとは感じない幸福な芸術家の種族。としている。
そして澁澤氏自身のこととして、「私自身のことを述べれば、私もまた、気質に溺れるということが、仕事をする上での最大の歓びとなっていることを告白しておく。」と書いている。肉体(気質)が、観念(アイデア)に先行するのを愛好するということだ。
「気質に溺れる」とは何とも素敵な言葉だと思った。


04/2/16(月)

『倉橋由美子の怪奇掌編』倉橋由美子(潮出版社)読了。
楽しみながら読める大人のちょっと恐い話、ってとこかな。吸血鬼やオリンポスの神々、夕顔、六条御息所、そのほか異形の者達が倉橋由美子の幻想の世界に現れる。妖しく不気味なエロスはこの人ならでは。
夜な夜な首が身体から離れ、好きな男のもとに飛んでいく「首の飛ぶ女」、お風呂のお湯につかりすぎて、身体が溶けて骨だけの姿になってしまった男の子の話「事故」など、読みながら空想の世界に遊ぶことが出来た。


04/2/14(土)

『晴子情歌 下』高村薫(新潮社)読了。
母という名の宇宙とでもいうべきか。息子にとって母親は、見えるようで見えない、分かるようで分からぬ存在。
晴子という女の半生の記ではあるが、私にはどうも晴子という女が漠として見えなかったなぁ。
むしろ晴子という目を通してみた大正、昭和という時代、彼女を取り巻くそれぞれの「家」の歴史に心が惹かれた。
著者はこの小説で初めて女性を主人公にした。合田雄一郎他、色気のある中年を描いたらピカイチ、と思っている私は、著者の描く女性はどうも・・分からない。でも女性の嫌な面を描くのは上手いナァと思う。否定的な側面の描写にリアル感があり、女性の美質はあまり見えてこなかった。つまり女性は女性に辛いということか。
あるサイトで、高村氏がインタビューに答えていた中で、晴子の息子の彰之の物語を続けて書いてみたいということが載っていた。これは嬉しい。私には晴子より彰之や、彼の父、従兄の遙の方が魅力的だったので、是非そのあたり期待してしまう。

今、アマリリスを描いている。バーミリオンの大輪の花が何とも美しい。見ているだけで豊かな気持ちになれる。
しか〜し、ただ今自宅のマンション、大規模修繕真っ最中なのだ。足場を組んで、ネットに覆われている様は、クリストの梱包じゃあるまいし。ベランダの鉢植えは実家に避難で、がらんと殺風景。おまけにいつ工事の人が通るか分からないので、絵を描いていても小心者の私はカーテンを全開に出来ない。
と、まあこんな感じで5月までか・・・┗(-_-;)┛ガマン


04/2/10(火)

久しぶりに高村薫を読んでみた。『晴子情歌 上』高村薫(新潮社)読了。
インド洋で漁船に乗る息子、彰之に百通もの手紙を書いた母、晴子。手紙の内容は晴子の父方、母方の祖父母の代まで遡る。父と母との出会いの場所、東京・本郷、父の郷里の青森・筒木坂、父康夫と向かう北海道・土場、初山別・・
晴子の手紙の中の時代は大正、昭和。桑折(こおり)、仕舞屋(しもたや)等、今はもうあまり使われなくなった言い方や、物が溢れている。また、晴子が読んだ『嵐が丘』『ジャン・クリストフ』『アンナ・カレーニナ』の名著は、私自身も実家の文学全集で読んだ懐かしい作品ばかり。
晴子の手紙は、しばしば自分の子供の頃のこと、両親のことを思い出させる。きっと多くの読者がそうではないかと思う。
著者は日本人が、失ってしまったもの、忘れてはいけない事を全身全霊で記録にとどめておこうとするかのように思える。晴子を通して「時代を記録しておかなければ」という、切迫感のようなものも感じた。


04/2/3(火)

都内のデパートで開催された『若冲と淋派』を見てきた。 お目当ては伊藤若冲(じゃくちゅう)だったが、所謂極彩色の若冲は初期の一点しかなかった。しかし、あまり見たことがなかった水墨画の数々が素晴らしく、流石に天才・若冲と感服した。
特に感動したのは六曲一双の「鶏図押絵貼屏風」で、計12枚の面にそれぞれ雄鶏と雌鶏、あるいはそれにひよこを加えたものが描かれている。
力強く存在を誇示し、猛々しく屹立する雄鶏に対して、静かにうずくまる雌鶏。若冲の筆捌きは、これでもかといわんばかりに、自由闊達にしかも正確に鶏たちの姿を画面に定着させていく。
離れて見ると12並んだ雄鶏の尾羽は、様々に形を作り、まるで梵字のようにも、戦国武将の花押のようにも見えてくる。
また、これも水墨画の「鼠婚礼図」は、鳥獣戯画のユーモアがあり、酔っぱらって転がった鼠のしっぽを他の鼠が引っ張っている様は、思わず口元がほころぶ。前記の鶏図も、立派な雄鶏の足の下でひよこがピヨピヨなんて図もあり、作者の軽妙洒脱で、自由な気質が伺えた。
極彩色の緻密な「動植綵絵」を中心とした作品ばかりに注目していたが、今回若冲の水墨画と直に出会えたことで、新たな素晴らしさを発見、実感できた。


1月3月